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第三部「赤壁大戦」第三十七集
時代背景:208年(建安13年)
[劉備]達は、命からがら『曹操軍』の追っ手から逃げのび、
《江夏》の地まで逃れてくるのでした。
しかしここまで逃れても、『曹操軍』が攻めてくるのは時間の問題。
[諸葛亮]は、《江東》を治める[孫権]と手を組もうと提言します。
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そこへ丁度良く、《江東》からの使者、[魯粛]が現れます。
[諸葛亮]も一目をおく人物である彼は、
[劉備]や[劉g]らと謁見し、《江東》にも『曹操軍』の危機が迫っている、
そのために遣わされたと言います。
[諸葛亮]が見るに、[曹操]は明らかに《長江》を渡り、《江東》を制圧、
天下を狙っているとのこと。
これに立ち向かうためには、『劉備軍』と『孫権軍』が手を組む他ないと、
[魯粛]は提案して、これに[諸葛亮]が《江東》へと向かうのです。
[曹操]は、完膚なきまでに決着をつけるために、
8000隻の水軍を率いて《赤壁》で決戦を挑もうとしており、
その大軍の数は100万。そして一気に天下を狙うのです。
そして[孫権]とは戦わずして降伏させたく、檄文で送り、
いわば脅しをかけるのです。
《江東》に向かうにあたって、[魯粛]は、[孫権]配下の者達が怖気づかないように、
[諸葛亮]に、『曹操軍』の兵力を教えないように、と言うのですが。
[孫権]は、賢人である先生の[張紹]に意見を仰ぎ、
『曹操軍』には『江東軍』とても敵わないと言われます。
[張紹]は戦を避け、[曹操]に帰順をする事を薦めるのでした。
あまりに圧倒的過ぎる軍勢に、臣下達も降伏の意見が多数という状況。
そんな中、[魯粛]は、[孫権]だけは下ってはならないと忠告し、
[献帝]や[劉j]の例を挙げ、飼い殺しにされることを警告します。
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[張紹]は、[劉備][諸葛亮]が[曹操]から逃げまわってしかいない、
ということを指摘し、皮肉めいたことを言うのですが、
逆に[諸葛亮]はそれを逆手に取り、
今まで寡兵でどれだけ『曹操軍』に対抗できてきたかを披露。
そして、集まっている儒者達は、口先だけの人物であると言い放ち、
[曹操]こそ戦うべき真の逆賊と言うのです。
そして[孫権]と謁見することになった[諸葛亮]。
そこで、散々[魯粛]に口止めをされていたにも関わらず、
『曹操軍』の兵力は100万、実際は140万にも及ぶと言ってしまいます。
しかし『曹操軍』と戦うかどうかは、[孫権]の判断に任せると言うのです。
このエピソードの注目点
「『曹操軍』の大軍に対する《江東》の者達」
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[曹操]は敵であるから、《江東》の者達も、
その脅威を前にして戦うのは当然。と[劉備]は判断していたのか。
勇猛盛んな《江東》の軍とはいえ、
彼らも大軍を相手に壊滅的被害を受けて滅ぼされるくらいならば、
いっその事降伏する。という考えに至っていきます。
実際何度も敗走を重ねている[劉備]の軍が頼りにならないというのも、
彼らからしてみれば当然なわけです。
しかしそこは、[諸葛亮 孔明]であり、簡単には言い負かされません。
注目の人物
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[魯粛 子敬]
吹替:岩崎ひろし
西暦172年(喜平元年)〜217年(建安22年)
《江東》にやってきた[諸葛亮]を出迎えた人物です。
元々は豪族の出身で『孫家』に仕え、大都督になるまで出世した人物。
[周瑜]と知り合い、一時は[袁術]にも仕えていましたが、
話にならないと、『孫家』側についたそうです。
[魯粛]は[孫権]に気に入られ、[魯粛]は、“天下二分の計”を持ってして、
[孫権]を推すようになります。
『赤壁の戦い』前後で[諸葛亮]と行動を共にします。
ただ『三国志演義』では、頭は良いものの、お人好しとして描かれて、
[諸葛亮]にあしらわれたり、[周瑜]に詰め寄られたりと、
いわゆる振り回される役になってしまうのですが、
実際は大都督として、《荊州》での出来事でうまく取り持った人物なのです。
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