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第三部「赤壁大戦」第三十六集
時代背景:208年(建安13年)『長坂の戦い』
[劉g]を陥れた[蔡瑁]は、[曹操]によって、水軍の大都督に任じられ、
重要な戦いの大役を任される事になるのでした。
これは、《江東》での戦いに備え、[周瑜]に敵う人材を求めたためです。
しかし[劉g]は、《荊州》の軍を持っていながらにして、
戦わずして降伏する事を[曹操]は罵り上げ、
[蔡瑁]に地位を狙われている事さえ見ぬき、
彼の安全を保証するという名目で、《許昌》に軟禁するというのです。
一方、《新野》を攻略した[曹仁]ですが、
[劉備]を取り逃しており、《江夏》へと逃げるとのこと。
彼を絶対に逃したくない[曹操]は、その追撃戦を開始するのでした。
『劉備軍』は、彼に付き従ってきた民達を従え、
非常に遅い行軍を続けているのでした。
決して民を見捨てないという[劉備]に従う、[諸葛亮]や[関羽]。
《江夏》へと救援を求めて[関羽]を先にいかせる中、
《長坂》の地では、[劉備]の二人の妻が行方不明になり、
[趙雲]が率いる部隊に、『曹操軍』が迫ってくるのでした。
[甘夫人]は救ったものの、[糜夫人]と[劉備]の息子[阿斗(劉禅)]が行方不明になり、
それを救援するために、[趙雲]は単騎で駆けます。
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[糜夫人]は、足に怪我をしてしまっていたため、その身を投げてしまい、
[阿斗]を[趙雲]に託すのでした。
[劉備]の嫡男を託された[趙雲]は、
『曹操軍』の大軍勢を横切らなければならず、単騎駆けの壮絶な戦いを繰り広げます。
敵陣にいた[曹操]は、この[趙雲]の勇猛ぶりに感心し、
生け捕りにしようと画策しますが、戦いは白熱し、
[趙雲]は、この死闘を闘いぬきます。
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[張飛]のいる橋まで逃走できた[趙雲]は脱出し、
伏兵がいると虚勢を張った威嚇で、『曹操軍』は一時後退。
そして、[趙雲]は[阿斗]を守り切ったのです。
しかし、その時の[劉備]の反応、
“赤子のために、かけがえの無い将軍を失いかけた”
といって我が子を投げ捨てようとする事が意味するものとは―?
ですが、『曹操軍』の追撃が終わることはなく、
河まで追い詰められた[劉備]は、決死の戦をしようとします。
そこへやってきたのが[劉g]によって率いられてきた船団。
この船に乗った[劉備]は、《江夏》へと逃れる事に成功するのです。
このエピソードの注目点
「《長坂坡》の凄絶な単騎駆け」
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この話で描かれるのは、《長坂坡》における壮絶な逃亡戦。
[曹操]は[劉備]を追い詰めるのではあり、
あくまで民への攻撃をしているわけではないのですが、
命がけの民との行軍となっています。
そんな中、行方不明となってしまった、[劉備]の息子[阿斗(劉禅)]
これを命がけで救おうとする[趙雲]の単騎の決死行は、
あまりにも壮絶なものとして描かれることとなりました。
そして[趙雲]は、[阿斗]を守り切って生還し、
この活躍は伝説として伝われる事となったのです。
注目の人物
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[糜夫人]
吹替:神保巴
西暦?年〜208年(建安13年)
[甘夫人]
吹替:田崎由美子
西暦?年〜209年(建安14年)
共に[劉備]の妻。
『除州の戦い』の際に[関羽]が、[曹操]に、手を出させてはならないと、
忠告した二人の[劉備]の妻達です。
『長坂の戦い』で[劉備]とはぐれてしまい、
その時に[糜夫人]は[劉備]の嫡男である[阿斗]を守って自害しており、
[糜夫人]の方が当時の[劉備]の正室になっていましたが、
[甘夫人]がその後を継ぎます。
[糜夫人]は、[劉備]に仕えた[糜竺][糜芳]の妹です。
[甘夫人]はしかし身分が低い人物で、[劉備]が《小沛》に移住していたころに、
妻になり、[阿斗]の母親でもあります。ですが、しばらく側室でした。
[糜夫人]死後、[甘夫人]は正室になるものの、ほどなく死去。
この後[劉備]は、[孫尚香]を娶るまで妻がおらず、
また、214年の『劉備の入蜀』で、ようやく[穆皇后]と呼ばれる正室を得られるのです。
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