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第ニ部「中原逐鹿」第二十九集
時代背景:200年(建安5年)『官渡の戦い』〜202年(建安7年)
『官渡の戦い』にて、主君である[袁紹]を見限った[許攸]は、
[曹操]の元にやってくるのです。
かねてから旧友であったという[曹操]と[許攸]。
待っていたとばかりに、彼を迎えた[曹操]は、
『袁紹軍』の弱点を[許攸]から知らされます。
[許攸]はすでに、『曹操軍』の兵糧が、残り一日分もないことを見抜いており、
短期決戦を挑む事を提します。
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『袁紹軍』の兵糧を襲い、奪ってしまう策を[許攸]は提案します。
時間が無い[曹操]は、早速とばかりに《烏巣》への攻撃を仕掛け、
その兵糧を焼いた上、また、奪い取ってしまうのです。
《烏巣》が燃え尽きた事を知って動揺する[袁紹]ですが、
この攻撃に[曹操]は全力を注ぎ、本陣は空ではないか、と思った[袁紹]。
しかしこれさえも罠であり、[袁紹]を《官渡城》から出させて、
《官渡城》を[曹操]が乗っ取ってしまう作戦なのでした。
こうして、『官渡の戦い』は決着がつくのでした。
[許攸]はそんな敗走の『袁紹軍』の前に高みの見物で現れ、
滅びの道を辿りたくなければ、[曹操]に下るように言うのです。
この時、投降し、後に『曹操軍』『魏軍』の五大将軍になった武将に[張コウ]がいます。
そして[袁紹]は、七十万の大軍が百足らずまで減った事を嘆き、
そのまま病状が悪化して死去してしまうのでした―。
この知らせは[劉備]達の元にも届き、
[曹操]の脅威にさらされる事を知ります。
これでは、《荊州》[劉表]を頼っても叶わないだろうと思います。
しかし、しばらくは様子を見るために、[劉表]の元を訪れる事を決めます。
折しも、[劉表]領土の《荊州・襄陽》では、[劉表]の寿命が老いてきており、
家督争いの危機がありました。
また、[曹操]と戦うのは危険すぎて動くつもりもないとの事。
[劉備]と関わるならば、戦乱を招くと判断した、
[劉表]配下の[蔡瑁]は、彼を迎える事を反対します。
それどころか、[曹操]に協力しようとも提言するほど。
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しかし賢明に判断した[劉表]は、同族でもある[劉備]を迎え入れ、
《新野》の地を与えられ、
ようやく[劉備]はしばらく安息の地を得るのですが―。
このエピソードの注目点
「河北の最大勢力[袁紹]の最期」
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『官渡の戦い』は、[曹操]の奸計の数々と[許攸]の寝返りによって、
兵糧を奪われるということによって、
完全に決着を着けるのでした。
そして[袁紹]はそれがショックになってか、そのまま病床に倒れて、死去してしまいます。
実際に[袁紹]が死去したのは、戦いのニ年後になります。
更には『袁家』はこの後、彼の息子三人の家督争いに突入し、
異民族の地にまで逃げ延びるものの、結局[曹操]に滅ぼされるのでした。
注目の人物
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[蔡瑁 徳珪]
西暦?年〜?年
吹替:高山春夫
[劉表]配下であり、《襄陽郡》の有力豪族の一人。
そして[劉表]が《荊州》に地盤を築くことができたのは、[蔡瑁]の航跡と言われています。
さて、有名な話には、[劉表]の死後、
[劉j]を後継者にするため、彼の異母兄である[劉g]と、支持者[劉備]を追い出し、
[劉j]の後継を実現させた、という事。
また、その後[曹操]に攻め入られた時に、彼に仕えた[蔡瑁]は、
[曹操]に仕えて、長水校尉を歴任したのだとか。
『三国志演義』及び、創作物では、[劉j]を後継者にするために、
[劉備]などの暗殺を企てたりするなど、あくどい人物に描かれます。
また、『赤壁の戦い』前後で、[周瑜]の離間策にはまった[曹操]に、
処刑されてしまうなど、良い描かれ方がされない人物なのも特徴です。
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