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第ニ部「中原逐鹿」第二十八集
時代背景:200年(建安5年)『官渡の戦い』
『官渡の戦い』で、いよいよ[曹操]と[袁紹]が激突。
その頃、《江東》ではそれを聞きつけた[孫策]が、何やら不穏な動きを見せていました。
この好きに、《許昌》を手に入れてしまおうとする彼。
『官渡の戦い』はいよいよ白熱するものとなり、
戦車や兵器類などを使った激しい戦いが展開をしていっていました。
数で優勢であるかのように見えた、『袁紹軍』ですが、
背後や側面からの奇襲の連続に対抗する事ができず、
[許チョ][張遼]などの『曹操軍』の勇将らが活躍。
形勢が不利になったと判断した[許攸]は、無理矢理にも[袁紹]を退却させ、
これを好機と見るや、一気に士気が上がる『曹操軍』。
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「[袁紹]が逃げたぞーッ! [袁紹]を斬れ! [袁紹]を斬れ!」
そして敗走することになった[袁紹]は、[劉備]達と遭遇。
『曹操軍』が自分たちが食い止めると、それも数千の兵でという彼。
何とか撤退したものの、[袁紹]は憤怒し、悔み続けるばかり。
持久戦に持ち込めば勝てていた、という軍師、[田豊]の発言を、
今になって聞いていればよかったと、またしても悔やむ[袁紹]。
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自分と対立する[田豊]が復帰しそうなことに、
[許攸]は危機を感じ、彼が[袁紹]の悪口を言っているという始末で、
まだ、50万の兵が残っていることから、
戦いは続いていると、[袁紹]は判断するのです。
一方の[田豊]は自暴自棄になっており、[袁紹]当ての遺書を残し、
処断されるよりも前に自害してしまう始末。
そして[曹操]は、一見のところ完全勝利しているかのように見えたのですが、
「挙兵して以来、かつてない大勝利だ」
と言うものの、依然として『袁紹軍』が大多数であり、
実は、10日あまりの兵糧しか無いと言います。それでも撤退しないという[曹操]。
この状況に《許昌》にいる[荀ケ]らに助言を仰ぎ、
撤退どころか進軍を薦める[荀ケ]。
“兵糧が尽きることよりも、丞相(曹操)が弱気になること”の方が不安と、
その書簡が届き、[袁紹]をこのまま押し切って倒すと決断させるのです。
[許攸]は『曹操軍』陣営の様子を探り、
防備が硬い反面、兵糧が危機的状況であると見ぬきます。
それを[袁紹]に報告する[許攸]ですが、
この時、更に軍師[郭図]は、あらぬ兵糧の横領の濡れ衣を彼に着せ、
失脚させようと企んでいました。
[許攸]の策は二面で、《官渡》と《許昌》を攻めるというもので、
本当にこの通りにしていれば[曹操]を倒せていただろうに、
家臣の発言に右往左往してばかりの[袁紹]は、
今度は[許攸]の言う事を信じなくなり、
彼が[曹操]と旧知の仲であるということを決定的として、[許攸]を処断するという[袁紹]。
これにはさすがに彼も[袁紹]に幻滅し、
[曹操]の元にやってくるという事になるのです。
このエピソードの注目点
「《官渡》の激突の背後の策略」
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《官渡》では、『曹操軍』と『袁紹軍』が激突し、
その戦いは激しさを増し、[曹操]の優勢として話が進もうとします。
この決定的な兵力差を縮めるために動くのは策謀。
短期決戦を挑む[荀ケ]の進言を聞き入れる[曹操]と、
家臣の甘言で、[許攸]を信じられなくなってしまった[袁紹]は対比的で、
これが『官渡の戦い』に決着をつける原因となろうとしていました。
注目の人物
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[許攸 子遠]
?年〜204年(建安9年)
吹替:池田ヒトシ
[曹操][袁紹]らと旧知の仲であり、[袁紹]には軍師にされ、
[田豊][郭図]などと共に『袁紹軍』を支えていたようですが、
このエピソードのように、『曹操軍』の補給路を襲撃して死命を制する、
という事が[袁紹]に聞き入れなくし、また家族が法を犯して逮捕されてしまったため、
[曹操]の元に降伏してきたという話です。
この物語では、『袁紹軍』唯一の人格者であるかのように描かれていますが、
結構、金銭面が貪欲だったという話もある他、
[曹操]に寝返ったということがよく描かれておらず、
小心者のように扱われているのだとか。
また、[曹操]腹心の[荀ケ]などにも、軽く見られていたとのことです。
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