三国志 Three Kingdoms 第27話 「官渡の戦い」


三国志 Three Kingdoms 第26話 「古城に再会す」



「人の上に立つ者として、やつは度量に乏しく見識が低い。
外面は寛大だが、頑固で疑い深い。
また、総帥の身でありながら、決断力にも度胸にも欠ける。
兵は多くとも指揮は定まらず、将はおごり、命に服さない。

わしから見れば、[袁紹]は総帥として、父として、
人の上に立つ者として失格だ。」

―[曹操 孟徳]




第ニ部「中原逐鹿」第二十七集

時代背景:200年(建安5年)『官渡の戦い』


[袁紹]は70万もの大軍を率いて、[曹操]と正面対決をする決意をし、

その決戦の地を《官渡》と定めます。

一方で彼の軍師達の対立は深まっており、投獄されている[田豊]は、

[袁紹]に危険が迫っているよう忠告しようと動き出します。


これには[曹操]も警戒し、戦うか、和睦をするかを、

家臣たちに遠慮無く熟慮させます。

そんな中、[荀ケ]は[袁紹]の事をよく知っており、

彼の軍など見掛け倒しであり、[関羽]の武勇を例に、武将達の士気を上げます。



[曹操]も[袁紹]は見掛け倒しと思っており、

この戦いは8年も前から想定していたと言い、さらに7万の精兵で70万を、

十分に打ち破れると言い放つほど。

更に兵糧に限りもあるので、15日で決着をつける短期決戦に。


《官渡》の地までやってきた[曹操]。

茶を振る舞うと言い、[袁紹]を呼び寄せ、陣中でくつろいで話をし出す始末。

これが、直接の攻撃ではなかったものの、罠であると[袁紹]は知らずに。


実は帝を連れてきていた[曹操]は、和睦をしようと言い出すのです。

ただ帝の事を、“特別な品”と言ってしまうのはいかがなものか。

[曹操]は昔からずる賢く、頭が働くという[許攸]。

[曹操]は、かなり下手に出て、あたかも『袁紹軍』に恐れをなして、

降伏しようかというほど。



しかし、一向に話ばかりしていて、動きを見せない両者に、

[許攸]ら家臣達はいらだちを感じはじめていました。

更に宮廷の女官達まで使って、兵士の士気を下げようとする行為に、

[許攸]はいい加減攻撃を開始しようとしますが、

その時すでに遅く、[曹操]の策はなっていました。


[袁紹]の危機を感じて、家臣達が行動し始めた時、

『曹操軍』の奇襲が開始されていました。


そして、『官渡の戦い』が始まります。

いきなり日の光の逆光の策に陥れられた『袁紹軍』の先鋒が一気に壊滅。

しかし、さすがは『袁紹軍』の70万の軍であり、

戦車隊などをけしかけて来て、これらも『曹操軍』と激突します。


ですが戦いは、『袁紹軍』が力押しと数で攻めている事に対して、

『曹操軍』は様々な策などを使って戦いに対抗しており、

じりじりと、戦況は変わっていきます。




このエピソードの注目点
「《官渡》の一大決戦」



ちなみに、[曹仁]によって、采配されている武将達の名は、

[夏侯惇][夏侯淵][張遼][楽進][于禁][徐晃]と、

いずれも『曹操軍』、後の『魏軍』の将軍たちが現れており、

これから彼らの活躍が期待されている事がわかります。


そして激しい激突で描かれていく『官渡の戦い』の行方は?

とにかく第二部最大の激突となるので、激しく描かれます。


注目の人物



[袁紹 本初] 154年(永興2年)?〜202年(建安7年)
吹替:菅生隆之

『後漢』の末期では《河北》で最大の勢力を持っていた、『袁氏』の長。

[曹操]と親交が深かったと言われており

元々名家出身であったにも関わらず謙虚であったので、慕われていました。


優柔不断で、頑固で疑り深い、と[曹操]には判断されており、

確かに《幽州》の[公孫サン]を倒すまでは最強の勢力でしたが、

[曹操]の勢いと大胆さには、かなわなかったようです。


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三国志 Three Kingdoms 第28話 「田豊、死諌す」
三国志 Three Kingdoms 第28話 「田豊、死諌す」

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