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第ニ部「中原逐鹿」第二十四集
時代背景:199年(建安4年)『白馬の戦い』
[曹操]の配下に下った[関羽]。
そんな[関羽]を絶対に手放したくない[曹操]は、
かつて[呂布]が有していた“赤兎馬”を与えて、恩を売るのです。
しかしそんな[関羽]の事を気に入らない家臣たちは、
いつかいつかと、[関羽]の命を狙い始めるのです。
それでも、[劉備]への契を忘れない[関羽]は、行方がわかったら、
その赤兎馬ですぐに駆けつけると言い続けます。
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その頃、[袁紹]の元にいる[劉備]は、[袁紹]が優柔不断であると見抜いており、
すでに半年、にらみ合いのまま[曹操]との交戦をしていないとのこと。
[許攸]の提言によって、ようやく[袁紹]は重い腰をあげますが、
[許攸]、[田豊]ら家臣の間で意見が対立してしまい、
進軍するのかどうかで、揺れ動き続ける[袁紹]。
客将でしかない[劉備]の発言によって、いよいよ揺れた[袁紹]は、
再び進軍の決意をし、反対をし続ける[田豊]を降格。
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こうして、[袁紹]と[曹操]との戦いが始まることになりました。
しかし戦いは[袁紹]の方が有利であり、
[顔良]、[文醜]という勇ましい武将がおり、劣勢の『曹操軍』。
ここで軍師の[程c]は、[関羽]を出すことを提言します。
[程c]は、『袁紹軍』に[劉備]がいることを見抜いており、
[関羽]が敵対すれば、[劉備]は処断され、[関羽]には[曹操]しかいなくなると、
そう判断してのことでした。
そして、《白馬》の地での戦いで、[顔良]を一刀のもとに倒した[関羽]。
[顔良]が倒されたことで動揺する事になる[袁紹]。
義兄である[劉備]は窮地に立たされました。
何とか[許攸]のとりなしで救われますが―、
続いて出てきた『袁紹軍』の武将は[文醜]。
これに、[徐晃][張遼]という『曹操軍』の猛将達が出陣しますが、
一進一退の攻防の中、勇んで出てきた[関羽]によって[文醜]を倒し、
『袁紹軍』を撤退させます。
しかしこれで、ついに[関羽]が『曹操軍』にいることがばれ、
[劉備]が通じていると判断した[袁紹]。
自分の命を救う、更には、[関羽]をも救うために、
彼は『袁紹軍』に[関羽]をこさせるように書簡を書くのでした。
[劉備]が生存していることを知った[関羽]は、
兄の元へと帰参するために動き出します―。
このエピソードの注目点
「[曹操]の寵愛と[関羽]の忠義」
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[曹操]と[袁紹]という天下の二大勢力が描かれる中、
[関羽]や[劉備]の忠義心というものを描かれています。
[関羽]は正直の所、[曹操]の元にいつまでもいたいのではなく、
早く[劉備]のもとに帰参したいのですが、
何としても自分の手元においておきたい、[曹操]。
あの手この手で、それこそ強引なまでに、[関羽]を引き止めたいところに、
[曹操]の人を見る目と人間性が分かります。
注目の人物
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[顔良] ?年〜200年(建安5年)
吹替:星野充昭
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[文醜] ?年〜200年(建安5年)
吹替:阪口周平
共に『袁紹軍』の勇将としてしられており、その筆頭でもあるという人物。
ただ、そういった強さをもてはやされて、
『白馬の戦い』で[関羽]にあっという間に倒される、という[関羽]の引き立て役。
でもあったりします。
[顔良]と[文醜]は幅広い指揮権と裁量権が与えられており、
それだけ[袁紹]に信頼されていたということでもありますが、
あっという間に《白馬》で倒された二人。[袁紹]らの動揺は、
並々ならぬものだったでしょう。
『三国志演義』では、『曹操軍』の[魏続][宗慶]を討ち取り、[徐晃]を撃退。
しかし[関羽]は、反撃の場もなく[顔良]を討ち取ったとされています。
そして彼と[文醜]は義兄弟の契りを交わしており、
復讐に燃える[文醜]でしたが、彼も[関羽]にあっという間に討ち取られたのでした。
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