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第ニ部「中原逐鹿」第二十三集
時代背景:200年(建安5年)『徐州の戦い』
[曹操]によって徹底的に攻められ、三兄弟が離散した、
絶望的な状況となった[劉備]。
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しかし彼は[袁紹]配下の[許攸]によって救われ、何とかその一命を保つのでした。
[袁紹]は、息子の様態が回復したとのことで、突然、[曹操]への戦いを再開。
しかし《許昌》への攻撃は、《徐州》への戦いに決着が着いてしまっていたため、
[曹操]が完全な状態であることに、
[劉備]はぼろぼろに傷ついて激高しながらも、[曹操]と戦い続けることを決意し、
[許攸]の薦めで、[袁紹]の配下に収まるのです。
[曹操]は、《徐州》を攻める最後として、《下ヒ》を落とすことを、
家臣たちから薦められますが、そこに[関羽]がおり、
[曹操]は[関羽]を討つのは惜しいと言い出します。
そこで[程c]は進言し、
《下ヒ》から[劉備]の危機の知らせを出させて出撃させ、
軍で包囲を囲み、逃げ場を失わせた後、[張遼]によって、
投降を薦めさせようとするのです。
[関羽]が[曹操]に投降するはずがない、のですが、
彼と親交があった[張遼]は、手厚く扱ってはいるものの、人質になっている、
[劉備]の二人の妻の存在。
そして、[劉備]達の“桃園の誓い”を破ってしまうこと。
更には『漢王朝』の再興を挫折してしまうのかと、彼を揺さぶります。
[関羽]は、[劉備]が見つかるまでという約束をし、
[関羽]は[曹操]に手厚く扱われる事になりました。
それこそ、[劉備]が見つかっても、帰さないというほどに―。
その頃、後に『呉』の地となる《江東》では、
[孫策]と[周瑜]は、竹藪の中で優雅に琴を弾いていた、
美人姉妹の[大喬][小喬]に琴の音で一目惚れしてしまい、
後日、その姉妹の実家で、“一音だけ間違っていた”という琴の音を聞き当てるのです。
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[孫策]と[周瑜]は一致し、[大喬]と[小喬]は早速とばかりに、
婚姻を申し込むことになるのでした。
対比的に、[曹操]幕下にいる[関羽]は、[曹操]の厚遇を受け取ることは出来ず、
側女もおくことができないのです。
[曹操]からしてみれば、そんな厚遇にも揺るがない[関羽]を、
時間をかけて心から従わせるというのです。
そして最後に[曹操]が贈った[関羽]への贈り物とは?
このエピソードの注目点
「三つの約束と、[関羽]の義理」
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『三国志』をまだそれほど詳しくないと、
この辺りの展開をいきなり説明されても、納得出来ないかもしれませんが、
[関羽]は、敵対している[曹操]幕下にいた事があるということ。
[劉備]の敗戦に、彼の妻たちを人質に取られていると言えば、
ある程度は納得できるかもしれませ。
しかしそこに、[関羽]と[曹操]の微妙な関係を作り出したのですね。
ちなみに、[曹操]は、確かに何度も[関羽]を手放さまいとしましたが、
約束自体は破っていないので、ちゃんとお互いに義理は果たしているのです。
注目の人物
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[張遼 文遠]
西暦:169年(建寧2年)〜222年(黄初3年)
吹替:堀部隆一
元は、[董卓][呂布]の配下。
しかし、[呂布]が敗北をした戦で、戦後に[曹操]に気に入られることとなり、
そのまま『曹操軍』の勇将として活躍。
後には、“五代将軍”の筆頭ともなったほどの人物です。
また[張遼]というと、『合肥の戦い』の恐ろしいまでの活躍が有名で、
わずかな兵士と共に、数万の敵を打ち破った戦をしたほどのもの。
こう考えると、『曹操軍』最強の武将ということもできるのです。
そんな彼は、元[呂布]配下で、彼が[劉備]と共に《徐州》を治めていた時、
[関羽]と盃を交わす仲であったといいます。お互いの武勇を認め、
[関羽]を[曹操]に降伏させる交渉に出向いています。
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