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第一部「群雄割拠」第十七集
時代背景:198年(建安3年)
厄介者であった[袁術]は滅び去ったものの、
《徐州》の情勢は緊張を保ったまま。
[曹操]は、[劉備]と[呂布]を仲違いさせ、さらに[呂布]は[陳宮]とも衝突させて、
彼を孤立させてしまう作戦に出ました。
それを提案し、二人の間に亀裂を生じさせる作戦に出たのが、
[陳珪][陳登]親子でした。
彼らは、[呂布]に、まず[劉備]が[曹操]と通じていて、《徐州》を狙っていると、
告げ、[陳宮]はこの策を見破っていたものの、
[呂布]は早くも、引っかかってしまい、《徐州定》を出ていき、
『劉備軍』を挟み撃ちにするということをしてのけました。
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再び敵対する両者。そして、[劉備]は、[関羽][張飛]らとはぐれてしまうのです。
ここで[劉備]は[陳宮]に騙されていた事を知るのですがー。
更に彼と[呂布]は[曹操]、そしてその手のものであった、
[陳珪][陳登]親子にも騙されていました。
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《徐州城》は彼らが治めてしまい、[呂布]らは門前払いに。
行き場を失った[呂布]は、運命の《下ヒ城》へと向かうことしかできないのでした。
一方[劉備]は、まるで時期を見計らっていたかのように現れた、
『曹操軍』の援軍に助けられます。
無事に[関羽]と[張飛]とも再会することになるのですが、
それは[曹操]が自分に恩を売っておくために行った、
一種の策であったのではと、疑う[劉備]なのでした。
このエピソードの注目点
「三者三様を騙しつくす[曹操]」
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[曹操]は、このエピソードで、[陳珪][陳登]親子を使って、
実に[劉備][呂布][陳宮]を騙し、彼らの関係を崩してしまいます。
彼らが一致団結すれば、[曹操]にとって脅威になるので、
それを崩す必要があるのは、いかにも卑怯ではあるのですが、
[曹操]曰く、乱世を沈めるためには仕方がないこと。
そしてその目論見は、『下ヒの戦い』へと続いていくのでした。
注目の人物
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[陳珪 漢喩]
西暦?年〜?年
吹替:林和良
[陳登 元龍]
西暦?年〜207年?
吹替:岡哲也
[陳珪]は、『後漢』王朝の官僚であり、
[曹操]に、[呂布]を討つべく、進言したという話が残っています。
元々は[袁術]と漢の官僚の子孫ということもあり、交友があったのですが、
[曹操]へと心が傾いていったようです。
[呂布]のために『袁術軍』を混乱させて破ったりなど、
[呂布]にも気に入られていたようですが、
最終的に彼の心は離れていき、彼を陥れるまでになってしまいました。
それ以上のことは分かっていないそうですが、
[曹操]配下になったと思われます。
その子、[陳登]は、『袁術軍』内部の分裂を予見したり、
[呂布]を[曹操]の策に陥らせるべく動いたりなど、[曹操]勢力での功績を上げています。
伝を辿って行くと、[陳登]は、西暦207年、39歳で、
食中毒で死去するまでは活躍があるとのこと。
[曹操]曰く、[陳登]が生きていれば、[孫権]の支配は《長江》北まで、
及ばなかっただろう、とのこと。
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