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第一部「群雄割拠」第十六集
時代背景:197年(建安2年) 『寿春の戦い』
[袁術]が勝手に皇帝になり王朝を開いたこと、
それに、[曹操]はあまりに愚かなことと言って笑い飛ばすのでした。
[袁術]を買いかぶりすぎていたのが、逆に失態だと言ってしまう始末。
そうであっても[袁術]の勢力は[曹操]の倍であり、
まだ慎重に出るように助言するのが、[荀ケ][郭嘉]といった切れ者の軍師達。
[曹操]は“詔”を出して、連合軍によって[袁術]を壊滅させるべく、
各地の群雄を集めるのでした。
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皇帝[献帝]に上訴した[曹操]は一軍を率いる立場につき、
[袁術]が都とした《寿春》へと攻めていきます。
この間の一幕として、[曹操]は自分が乗った馬車が、馬が驚いたことで、
穀草地の突っ込んでしまい、収穫期の畑を荒らせば斬る。
という自分の命令に従って、自害しようとまでしてしまう大胆さ。
一応、これは彼の髷を斬ることで、勘弁したようですが、
この軍法の厳格さは、
[袁術]との戦で、兵糧不足となったとき、見せしめで家臣を殺害し、
それで、文句を言う者は斬るという件で、士気を高めようとするのです。
その頃、[呂布]の元には、[袁術]から彼の娘に縁談を持ちかける話が来ます。
これを受けた[呂布]ですが、[陳宮]によれば、
婚姻には一年の機会がいるのだとか。
そして[陳宮]は、皇帝を僭称した[袁術]の親類など価値なしと[呂布]に忠告。
入れ違いでやってきた、皇帝の“詔”は、
[呂布]を“徐州牧”として、[袁術]を攻めるというもの。
しかし動きを静観する[呂布]や、他の諸侯たち。
そんな中、[曹操]の元には、一度敵対した[劉備]がやってくるのです。
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軍師[郭嘉][程c]の勧めで、下手に騒ぎにしないために、
[劉備]を始末することはせず、動きを静観するということに。
一度敵対した者達が、再び同盟することに。
そして『寿春の戦い』が起こります。
あっという間に追い詰められることとなった、[袁術]。
籠城を決め込むことになるのですが、それに耐えた[曹操]達は、
一気に《寿春》を攻めることになるのでした。
[曹操]の圧倒的な攻めに、《寿春城》は激戦の攻城戦の末に陥落。
そして[袁術]は敗走。あっけなく滅んだ[袁術]の末路。
このエピソードの注目点
「皇帝を僭称した者の末路」
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[袁術]は『皇帝』を名乗り『仲王朝』を興しましたが、
それはいたずらに国を乱れさせてしまうもの。
[曹操]の方が勢力的には半分なのですが、諸侯らを集めて、
敵対をするものとなりました。
[袁術]に勝てば『漢王朝』に功績を讃えられる、
一方で負ければ笑いものにされるということで、諸侯らが静観するのです。
しかし一度、《寿春》が攻められれば、
[袁術]はあっという間に滅ぼされるしかなかったようで―。
注目の人物
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[袁術 公路]
西暦155年(永寿元年)?〜199年(建安4年)
吹替:辻親八
[袁紹]の親戚であり、『反董卓連合』でその名を上げ、
豪族としての地位を高めた人物。そしてそれは行き過ぎたものとなって、
“伝国の玉璽”を手に入れたことから、『仲王朝』というものを建て、
皇帝を名乗っていました。
しかしそれは、他の勢力に攻めてくれと言っているようなものであり、
[曹操][劉備]らの軍によって、いともたやすく滅びました。
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