『三国志』ではあまり活躍が見られませんが、
「孫権」の時代から仕え、若き頃から各地で小部隊を率い、
「甘寧」「陸遜」の指揮下で働きました。
“偏将軍”にまで昇進しています。
「孫権」の死の直後、
『呉』の皇帝が「孫亮」になった時代、
252年に『東興の戦い』が起こります。『魏』の「諸葛誕」らが率いる7万の軍を、
「諸葛恪」の指揮下で迎え撃ち、『魏軍』の酒宴の隙、さらに雪も交えて、
わずか3千の軍で追い返し、大いに武功をあげました。
255年『魏』の《寿春》において、『母丘倹・文欽の乱』が起こり、
『呉』への降伏を受け入れ、「文欽」を救援。
257年の『魏』の『諸葛誕の乱』にも『諸葛誕軍』の救援に向かい、
「丁奉」は突撃隊長となり、“左将軍”となりました。
以後、『蜀』が『魏』に降伏し、さらに『晋国』の成立後まで活躍しています。
『呉』は3代皇帝「孫休」、4代皇帝「孫皓」になっていきますが、
だんだんと「丁奉」は昇進していくにつれて、傲慢になっていったといい、
『呉』の最後の皇帝にして暴君であった「孫皓」とは、
最終的に不仲になり、「丁奉」は271年に死去していますが、
一族は追放されてしまいました。
『三国時代』でもかなりの後半に登場する人物であるため、
『三国志』『三国志演義』などでも名前くらいしか出てきませんが、
時代の後半に活躍した人物であることは確かなのです。
|