『三国志』『三国志演義』などの後半において、主人公として活躍する軍師。
出生は不明ですが、家系は分かっており、父「諸葛珪」は、
『後漢』における郡の副長官でした。
他に、兄には『呉』に仕えた「諸葛瑾」がいます。
書生時代、晴耕雨読の生活を続けており、
このころに地元の名士である「黄承彦」の娘、「黄月英」と結婚。
“孔明の嫁選びを真似てはいけない”と言われるほど、
不美人と言われていますが、実際のところは分かりません。
やがて、覇権を手にし「曹操」に追い詰められていく「劉備」が、
「諸葛亮」の友人、「徐庶」の紹介により、
『三国志』で非常に有名な、“三顧の礼”をしています。
「劉備」に三度も自分の所に来させるというものでしたが、
これは「諸葛亮」が「劉備」を試していたとも言われます。
そしてここで、「劉備」に“天下三分の計”を披露。
強大な力を持つ「曹操」「孫権」は避け、
《荊州》《益州》に地盤を固め、その後、天下を狙うという事を勧めます。
「劉備」は「諸葛亮」の見識にほれ込み、
以後、彼は「劉備」に仕える事になるのでした。
208年の『赤壁の戦い』では、『劉備軍』の軍師として、
「孫権」らに、「曹操」との徹底抗戦を主張。
この戦いのとき、彼は東南の風を祈祷吹かし、炎を煽り、
『劉備・孫権連合軍』の勝利に貢献したと言う伝説があります。
結果、「劉備」達は、『赤壁の戦い』に勝利をするのでした。
そして、「劉備」達は、この戦いののち、「曹操」らがいったん退いたすきに、
《荊州》四郡を占領。また、211年には後の『蜀』の都となる、
《成都》を得ます。
214年には《益州》が平定され、「諸葛亮」らは『蜀』の法律とされる、
“蜀科”を平定しました。
その後、『曹操軍』との『定軍山の戦い』に勝利をして、
《漢中》を領有した「劉備」たちでしたが、
《荊州》の「関羽」が『孫権軍』の「呂蒙」らによって殺害。
怒りのままに、『呉』に進軍しようとする「劉備」に追い打ちをかけるように、
彼の義兄弟である「張飛」も殺害され、
「諸葛亮」は「劉備」を諫めようとするものの制止はできず。
『夷陵の戦い』によって、『劉備軍』は後にも渡る影響となる大敗をしてしまうのでした。
「劉備」は失意のまま233年に《白帝城》で死去。
もし自分の跡継ぎである息子の「劉禅」が暗愚であれば、
「諸葛亮」に皇帝になるように言い残します。
しかし「諸葛亮」は皇帝にはならず、まだ若い「劉禅」を支え続けました。
「劉禅」の元では、「諸葛亮」は政治の全権を握ります。
また、『呉国』となった「孫権」との断たれた関係を、
「諸葛亮」はしっかりと修復させます。
そして、『後漢王朝』を滅ぼした『魏』に対して、
「諸葛亮」の最大の計画である、“北伐”を実行するため、
「劉禅」に“出師表”を出させます。
228年の春から、《漢中》より『魏』へと侵攻し、
「趙雲」「魏延」らと共に《南安》《天水》《安定》の三郡を、
『蜀』に寝返らせ、この時、後継者と言われる「姜維」を降伏させ、
『蜀』の武将とします。
しかしながら、
北伐の一つである、『街亭の戦い』で、
かねてから「諸葛亮」と共にあった「馬謖」が助言を無視して、
山上に布陣をしたため、『蜀軍』は撤退をしなければならないほどの、
大敗をしてしまうのでした。
「馬謖」の罪は、多くの兵を死なせてしまったため非常に重く、
“泣いて馬謖を斬る”の言葉にあるように、処断をしなければなりませんでした。
更に自分をも、位を三階級減らして罰しています。
229年の春には、「諸葛亮」は再び北伐を再開して、
第3次の北伐では、丞相の地位に復帰。
そして第4次の北伐で、『魏軍』を《祁山》で包囲。
ここで初めて「諸葛亮」は、自分の宿命の敵とも言える、
「司馬懿」と対面したと言われています。
231年春2月に第4次の北伐、そして234年春2月に最期の北伐をします。
しかし『蜀軍』に決定的に欠けていたものが、兵糧でした。
様々に知略をし、屯田、さらには、「司馬懿」を挑発して、
引っ張り出すために、女物の服を贈るという、侮辱的挑発までするものの、
それが、「諸葛亮」自身の寿命が迫っている、という事を見抜かれ、
「司馬懿」には持久戦に持ち込まれてしまいます。
「諸葛亮」と「司馬懿」の長きに渡る激闘は、
持久戦の果てに、「諸葛亮」自身の寿命によって幕を閉じるのでした。
この最後の激闘は『五丈原の戦い』として知られています。
「諸葛亮」は陣中にて死去。享年53歳。
その出生から、“北伐”のエピソードまで、
逸話も伝説も多い「諸葛亮」。本国中国では神格化もされており、
『三国志』では最も人気が高い人物とされています。
死してなお、その影響力が強かったのが、「諸葛亮」の天才ぶりであり、
己の埋葬は、副葬品さえ一切いれない質素なものでしたが、
自分の木像を作り、それに驚いた「司馬懿」達を撤退させるという、
“死せる諸葛、生ける仲達を走らす”という言葉もあります。
また、「劉禅」が「諸葛亮」の死後も30年に渡って『蜀』を支え続けられたのは、
「諸葛亮」の影響力が強いとも言われているのです。
「諸葛亮」の評価が非常に高いのは、現在の『三国志』を見ても明らかですが、
本当にそうであったのか?という疑問符も打たれるようになりました。
まず“北伐”という行為に意味があったのか?
無謀な行為ではなかったのか?『蜀』の首を締める結果となったのではないか?
とも言われています。
『漢王朝』の再興が目的ではありましたが、
時代はすでに次に進んでいたのかもしれません。
そして、後継者に恵まれなかったことも、「諸葛亮」の弱点であり、
「司馬懿」が優秀な息子「司馬師」「司馬昭」に恵まれていた事の、
決定的な差となりました。
「諸葛亮」も子はいますが、そこまで優秀ではなく、
最終的に『蜀』の国は、「司馬懿」の次男「司馬昭」によって降伏させられ、
その時、子供達も殉じていますが、
子孫の家系は現代まで続いているのだそうです。
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