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諸葛亮 孔明


名:諸葛亮(しょかつりょう)
字:孔明(こうめい)
-Zhuge Liang-

諡号:忠武侯
別名:伏龍、臥龍

所属:劉備軍→蜀国(丞相)

出生:不明
生年:181年(光和4年)
没年:234年6月10日(建興12年)
享年53歳</strong>


-伝-
『三国志 蜀書』
巻35『諸葛亮傳』[諸葛亮]伝


-血縁関係-

父:[諸葛珪]

兄:[諸葛瑾]

妻:[黄月英]

子:[諸葛瞻][諸葛懐]

『真・三國無双』

CV:小野坂昌也
主人公格の一人として『蜀』勢力には欠かせない存在。
史実上の伝説や風貌などを踏まえつつも、
非常に知的な印象の人物として描かれます。
また、奥様の「月英」も出演し、
美人で知的な奥様として描かれます。



『三国志大戦』

もちろん欠かすことができない登場人物として登場。
知的な印象、羽扇を持っている姿も健在です。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:堀内賢雄
物語中盤から後半の実質的主人公です。
最初はあまり感情が表に出ないシーンが多いのですが、
後半になるにつれ、だんだんと人間的な姿が現れていきます。
ちなみに奥様も子も登場しません。



『三国志』『三国志演義』などの後半において、主人公として活躍する軍師。

出生は不明ですが、家系は分かっており、父「諸葛珪」は、

『後漢』における郡の副長官でした。

他に、兄には『呉』に仕えた「諸葛瑾」がいます。


書生時代、晴耕雨読の生活を続けており、

このころに地元の名士である「黄承彦」の娘、「黄月英」と結婚。

“孔明の嫁選びを真似てはいけない”と言われるほど、

不美人と言われていますが、実際のところは分かりません。


やがて、覇権を手にし「曹操」に追い詰められていく「劉備」が、

「諸葛亮」の友人、「徐庶」の紹介により、

『三国志』で非常に有名な、“三顧の礼”をしています。

「劉備」に三度も自分の所に来させるというものでしたが、

これは「諸葛亮」が「劉備」を試していたとも言われます。

そしてここで、「劉備」に“天下三分の計”を披露。

強大な力を持つ「曹操」「孫権」は避け、

《荊州》《益州》に地盤を固め、その後、天下を狙うという事を勧めます。


「劉備」は「諸葛亮」の見識にほれ込み、

以後、彼は「劉備」に仕える事になるのでした。


208年の『赤壁の戦い』では、『劉備軍』の軍師として、

「孫権」らに、「曹操」との徹底抗戦を主張。

この戦いのとき、彼は東南の風を祈祷吹かし、炎を煽り、

『劉備・孫権連合軍』の勝利に貢献したと言う伝説があります。

結果、「劉備」達は、『赤壁の戦い』に勝利をするのでした。


そして、「劉備」達は、この戦いののち、「曹操」らがいったん退いたすきに、

《荊州》四郡を占領。また、211年には後の『蜀』の都となる、

《成都》を得ます。

214年には《益州》が平定され、「諸葛亮」らは『蜀』の法律とされる、

“蜀科”を平定しました。

その後、『曹操軍』との『定軍山の戦い』に勝利をして、

《漢中》を領有した「劉備」たちでしたが、

《荊州》の「関羽」が『孫権軍』の「呂蒙」らによって殺害。


怒りのままに、『呉』に進軍しようとする「劉備」に追い打ちをかけるように、

彼の義兄弟である「張飛」も殺害され、

「諸葛亮」は「劉備」を諫めようとするものの制止はできず。


『夷陵の戦い』によって、『劉備軍』は後にも渡る影響となる大敗をしてしまうのでした。

「劉備」は失意のまま233年に《白帝城》で死去。

もし自分の跡継ぎである息子の「劉禅」が暗愚であれば、

「諸葛亮」に皇帝になるように言い残します。

しかし「諸葛亮」は皇帝にはならず、まだ若い「劉禅」を支え続けました。


「劉禅」の元では、「諸葛亮」は政治の全権を握ります。

また、『呉国』となった「孫権」との断たれた関係を、

「諸葛亮」はしっかりと修復させます。


そして、『後漢王朝』を滅ぼした『魏』に対して、

「諸葛亮」の最大の計画である、“北伐”を実行するため、

「劉禅」に“出師表”を出させます。


228年の春から、《漢中》より『魏』へと侵攻し、

「趙雲」「魏延」らと共に《南安》《天水》《安定》の三郡を、

『蜀』に寝返らせ、この時、後継者と言われる「姜維」を降伏させ、

『蜀』の武将とします。


しかしながら、

北伐の一つである、『街亭の戦い』で、

かねてから「諸葛亮」と共にあった「馬謖」が助言を無視して、

山上に布陣をしたため、『蜀軍』は撤退をしなければならないほどの、

大敗をしてしまうのでした。

「馬謖」の罪は、多くの兵を死なせてしまったため非常に重く、

“泣いて馬謖を斬る”の言葉にあるように、処断をしなければなりませんでした。

更に自分をも、位を三階級減らして罰しています。


229年の春には、「諸葛亮」は再び北伐を再開して、

第3次の北伐では、丞相の地位に復帰。

そして第4次の北伐で、『魏軍』を《祁山》で包囲。

ここで初めて「諸葛亮」は、自分の宿命の敵とも言える、

「司馬懿」と対面したと言われています。


231年春2月に第4次の北伐、そして234年春2月に最期の北伐をします。

しかし『蜀軍』に決定的に欠けていたものが、兵糧でした。

様々に知略をし、屯田、さらには、「司馬懿」を挑発して、

引っ張り出すために、女物の服を贈るという、侮辱的挑発までするものの、

それが、「諸葛亮」自身の寿命が迫っている、という事を見抜かれ、

「司馬懿」には持久戦に持ち込まれてしまいます。


「諸葛亮」と「司馬懿」の長きに渡る激闘は、

持久戦の果てに、「諸葛亮」自身の寿命によって幕を閉じるのでした。

この最後の激闘は『五丈原の戦い』として知られています。

「諸葛亮」は陣中にて死去。享年53歳。


その出生から、“北伐”のエピソードまで、

逸話も伝説も多い「諸葛亮」。本国中国では神格化もされており、

『三国志』では最も人気が高い人物とされています。


死してなお、その影響力が強かったのが、「諸葛亮」の天才ぶりであり、

己の埋葬は、副葬品さえ一切いれない質素なものでしたが、

自分の木像を作り、それに驚いた「司馬懿」達を撤退させるという、

“死せる諸葛、生ける仲達を走らす”という言葉もあります。

また、「劉禅」が「諸葛亮」の死後も30年に渡って『蜀』を支え続けられたのは、

「諸葛亮」の影響力が強いとも言われているのです。


「諸葛亮」の評価が非常に高いのは、現在の『三国志』を見ても明らかですが、

本当にそうであったのか?という疑問符も打たれるようになりました。


まず“北伐”という行為に意味があったのか?

無謀な行為ではなかったのか?『蜀』の首を締める結果となったのではないか?

とも言われています。

『漢王朝』の再興が目的ではありましたが、

時代はすでに次に進んでいたのかもしれません。


そして、後継者に恵まれなかったことも、「諸葛亮」の弱点であり、

「司馬懿」が優秀な息子「司馬師」「司馬昭」に恵まれていた事の、

決定的な差となりました。

「諸葛亮」も子はいますが、そこまで優秀ではなく、

最終的に『蜀』の国は、「司馬懿」の次男「司馬昭」によって降伏させられ、

その時、子供達も殉じていますが、

子孫の家系は現代まで続いているのだそうです。


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趙雲 子龍
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