趙雲 子龍


名:趙雲(ちょううん)
字:子龍(しりゅう)
-Zhao Yun-

諡号:順平侯

所属:公孫サン軍→劉備軍→蜀国

出生:冀州常山郡真定県
生年:不明
没年:229年(建興7年)
享年不明/strong>


-伝-
『三国志 蜀書』
巻36『関張馬黄趙傳』[趙雲]伝


-血縁関係-
妻:[孫軟児](架空の人物)
子:[趙統]、[趙広]、[趙氏]


『真・三國無双』

CV:小野坂昌也
この『三國無双』シリーズの主人公とはされていますが、
あくまで、メインキャストの一人といった様相で、
どちらかというとストーリーは、[劉備]や[諸葛亮]よりだったりします。
ただオープニングなどでは彼の活躍が必ず描かれます。


『三国志大戦』

もちろん主役格であるのは当然のようであり、
さながら勇者のような姿で描かれていたりするのです。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

精悍な顔立ちの彼ですが、やはり時代が進めば、
白髪も混じるようになっていきます。
『蜀国』の主人公はやはり劉備達なのですが、
[趙雲]の姿もしっかりと描かれていく事になります。
そしてその最大の活躍は、やはり『長坂坡の戦い』での、
阿斗救出戦にありました




『三国志』で活躍する英雄の一人で、『趙雲列伝』というものが作られるほど、

『三国志』上の勇者という姿が強いものとなっています。

この歴史の人物としても非常に人気があるようですね。

身長184cmもあったかどうかは分かりませんが、

長身で立派な姿であったといいます。


○来歴

彼は元々は[公孫サン]の軍に所属していました。

[公孫サン]の元には[劉備]もおり、《河北》の有力勢力である[袁紹]と戦っていたサイ、

[劉備]の騎兵隊長に一時的になっていました。


●[劉備]の配下へ
200年〜208年

その後、[公孫サン]の元を去った[趙雲]。

しばらく[趙雲]の活躍は無いのですが、200年、

[劉備]と再開して、密かに募っていたという兵とともに[劉備]の配下になります。


●『長坂の戦い』での活躍
208年

《荊州》牧の[劉表]が死去し、支えがなくなり、[曹操]から追われる身となった、

[劉備]。この時、彼は嫡男である[阿斗(後の[劉禅])とはぐれてしまいましたが、

[趙雲]はここで決死の奪回作戦をし、

『曹操軍』の元から、[阿斗]と[甘夫人](劉備夫人)を救い出しました。

この功によって。彼は、“牙門将軍”に昇進します。


●《荊州》から《漢中》へ
209年〜217年

[劉備]の入蜀の時には、《荊州》にとどまっていた[趙雲]。

213年ごろ、[諸葛亮]に率いられて《益州》の各地を攻略していき、

《漢中》を攻略する『定軍山の戦い』では、

“五虎将軍”の一人、[黄忠]を救出して、見事な撤退戦をします。


やがて義兄弟を殺害された[劉備]が怒りにかられ『孫呉』へと兵を進めますが、

[趙雲]はとどまりました。結果として『夷陵の戦い』で、

[劉備]は敗北し、失意のうちに死去してしまいます。


●[諸葛亮]の北伐
223年〜229年

『蜀国』は彼が過去に救った[劉禅]が継ぎ、[諸葛亮]の“北伐”が始まります。

[趙雲]は《漢中》に駐留するようになり、

《キ山》などの地で攻防を続けています。

敗北と降格などもあったものの、五虎将軍のひとりとして、

彼は最後まで闘いぬいており、229年に戦死ではなく、

恐らく寿命で死去していくのでした。彼の跡は[趙統]が続いています。


○人柄

具体的にどのような人柄かというのは、正史には少なく、

『三国志演義』での展開がよく知られています。

“五虎将軍”のひとりとして、勇猛かつ義にあつく、武芸の達人とされていますが、

冷静沈着であるとも言われてきました。

“五虎将軍”では最後まで生きた人の人物ですが、

史実では最もその位が低く、[魏延]よりも下であったというのは、意外な点です。

また、白馬に乗っていたと言う事でも有名だったりします。


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馬超 孟起
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