『三国志』で活躍する英雄の一人で、『趙雲列伝』というものが作られるほど、
『三国志』上の勇者という姿が強いものとなっています。
この歴史の人物としても非常に人気があるようですね。
身長184cmもあったかどうかは分かりませんが、
長身で立派な姿であったといいます。
○来歴
彼は元々は[公孫サン]の軍に所属していました。
[公孫サン]の元には[劉備]もおり、《河北》の有力勢力である[袁紹]と戦っていたサイ、
[劉備]の騎兵隊長に一時的になっていました。
●[劉備]の配下へ
200年〜208年
その後、[公孫サン]の元を去った[趙雲]。
しばらく[趙雲]の活躍は無いのですが、200年、
[劉備]と再開して、密かに募っていたという兵とともに[劉備]の配下になります。
●『長坂の戦い』での活躍
208年
《荊州》牧の[劉表]が死去し、支えがなくなり、[曹操]から追われる身となった、
[劉備]。この時、彼は嫡男である[阿斗(後の[劉禅])とはぐれてしまいましたが、
[趙雲]はここで決死の奪回作戦をし、
『曹操軍』の元から、[阿斗]と[甘夫人](劉備夫人)を救い出しました。
この功によって。彼は、“牙門将軍”に昇進します。
●《荊州》から《漢中》へ
209年〜217年
[劉備]の入蜀の時には、《荊州》にとどまっていた[趙雲]。
213年ごろ、[諸葛亮]に率いられて《益州》の各地を攻略していき、
《漢中》を攻略する『定軍山の戦い』では、
“五虎将軍”の一人、[黄忠]を救出して、見事な撤退戦をします。
やがて義兄弟を殺害された[劉備]が怒りにかられ『孫呉』へと兵を進めますが、
[趙雲]はとどまりました。結果として『夷陵の戦い』で、
[劉備]は敗北し、失意のうちに死去してしまいます。
●[諸葛亮]の北伐
223年〜229年
『蜀国』は彼が過去に救った[劉禅]が継ぎ、[諸葛亮]の“北伐”が始まります。
[趙雲]は《漢中》に駐留するようになり、
《キ山》などの地で攻防を続けています。
敗北と降格などもあったものの、五虎将軍のひとりとして、
彼は最後まで闘いぬいており、229年に戦死ではなく、
恐らく寿命で死去していくのでした。彼の跡は[趙統]が続いています。
○人柄
具体的にどのような人柄かというのは、正史には少なく、
『三国志演義』での展開がよく知られています。
“五虎将軍”のひとりとして、勇猛かつ義にあつく、武芸の達人とされていますが、
冷静沈着であるとも言われてきました。
“五虎将軍”では最後まで生きた人の人物ですが、
史実では最もその位が低く、[魏延]よりも下であったというのは、意外な点です。
また、白馬に乗っていたと言う事でも有名だったりします。
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