馬超 孟起


名:馬超(ばちょう)
字:孟起(もうき)
-Ma Chao-

諡号:威侯
通称:錦馬超

所属:『馬騰軍』→『曹操軍』→独立勢力
→『張魯軍』→『劉備軍』→『蜀国』

出生:扶風郡茂陵県
生年:176年(熹平5年)
没年:222年(章武2年)
享年47歳


-伝-
『三国志 蜀書』
巻36『関張馬黄趙傳』[馬超]伝


-血縁関係-
祖父:[馬平]
父:[馬騰]
妻:[楊氏](正室)[董氏](側室)
弟:[馬休][馬鉄]
従弟:[馬岱]
子:[馬秋][馬承][馬姫]([劉理]正室)

『真・三國無双』

CV:服巻浩司
西涼出身の武将として、熱血な印象の武将となっています。
正義感が強くて、それはかなり極度のものとなっているのです。
そのため、同じく登場する、従弟の[馬岱]を苦労させることも、
『潼関の戦い』では、[曹操]に激しい憎悪を燃やしており、
この頃から登場します。

『三国志大戦』

西涼は騎馬武者が強かったという事もあって、
そのような騎馬勇者としての印象となっていますね。
また、他のバージョンも登場します。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

演:陳奕霖
吹替:森川智之
西涼の猛将として登場して、[劉備]達の《西蜀》侵攻の前、
[張飛]との激しい一騎打ちから登場していきます。
勇猛盛んな印象を見せつけてくれます。





現在の『モンゴル』に近い地である《西涼》の出身で、

父親[馬騰]は、『羌族』との混血であり、彼にも騎馬民族の血が流れます。

元々、彼らの勢力図は『漢王朝』の直接の支配を受けていなかったため、

異民族から信頼が厚く、また騎馬武者として強かったという事もあり、

『蜀国』の“五虎大将軍”の一人となります。


○来歴

[馬超]の父親である[馬騰]は、《西涼》出身ですが、

有力軍閥の一つである[韓遂]とは、義兄弟で友好関係にありました。

しかしながら、時に激しく両者は対立し、[曹操]の命令で、[鍾ヨウ](鍾会の父)

が和解をさせています。


●その若き日
〜211年(35歳)

202年、彼が26歳の頃、[馬騰]は、[曹操]の援軍として、[ホウ徳]らと共に、

司隷校尉の督軍従事として従軍、この時の負傷をしてもの功績のため、

“徐州刺史”となり、後に“諌議大夫”にもなります。

しかしながら、208年ごろ、[韓遂]と不仲となり、父[馬騰]も入朝したため、

[馬超]は父の軍勢を引き継ぎました。


●『潼関の戦い』
211年(35歳)

[馬超]は[曹操]の配下にあった頃、[曹操]は、《漢中》の[張魯]を討伐しようと、

[鍾ヨウ][夏侯淵]らに命じます。

しかし、[馬超]らの諸将らは、身近にいる自分達も攻められると、

疑心暗鬼になっています。


この疑心暗鬼から、[馬超]と[韓遂]は[曹操]と敵対。

戦いに臨み、10万の軍勢で、《潼水》の地に布陣し、『潼関の戦い』がおこります。

この時、強力な[馬超]らの騎馬武者によって、[曹操]も、

命を落としかけてしまうのですが、『曹操軍』[賈ク]の、

離間の計により、[馬超]と[韓遂]は不仲になり、その隙をつかれて敗北してしまいます。


そして[曹操]は、[馬超]ら《羌族》などの勢力を警戒し、

父[馬騰]らを処断されてしまいます。

このことから、[馬超]は、一族の仇と、猛烈に[曹操]に敵対するようになりました。


『三国志演義』ではこの順序が逆であり、

[曹操]に父を殺害したからこそ、[馬超]は挙兵しているという姿になります。


●敗北の後
212年〜214年(36歳〜38歳)

[馬超]は『羌族』の兵を集め、更に彼に呼応するものも多く、

《涼州》の地や城を自ら味方につけます。

[夏侯淵]らの《漢中》征伐に対抗しますが、[王異][夏侯淵][張コウ]らの援軍で、

勝利を得られる事ができず、また《漢中》の[張魯]の人望を失望し、

この軍での立場も悪化。


[馬超]は、この頃に《益州》の[劉璋]を破って《成都》を得た[劉備]に、

手紙を送って降伏を申し入れました。

この時、『三国志演義』などでは、[馬超]は『劉備軍』と激しく戦っており、

彼自身は[張飛]と、激しい一騎打ちをしているというものもあります。


●『劉備軍』への帰順後
214年〜222年(38歳〜47歳)

[劉備]陣営での評価は高く、[諸葛亮][関羽]にも一目置かれていたと言われています。

彼は更に『劉備軍』で『定軍山の戦い』などに参加。

[劉備]の漢中王になった時も、左将軍・仮節に任命され、

221年には、驃騎将軍・涼州刺史にもなるのですが、

222年に47歳で死去するのでした。

戦士ではなく、病死か寿命であるとされ、子の[馬承]が跡を継いでいます。


○人物像

[馬超]が[曹操]に反旗を翻したこと、この解釈は『三国志演義』で、

かなり変えられており、[馬超]が、悲劇のヒーローであると、

そのような印象になっていますが、

実はかなり野心家であり、[曹操]に『西涼軍』で対抗した。

(実際、彼の軍は相当に強く、[曹操]も追い詰められていた)

と取ることもできます。


また、《西涼》の軍閥時代に、『魏』の女性[王異]の一族を、

彼は殺害しており、彼女に猛烈に恨まれていたとも言われています。


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黄忠 漢升
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