現在の『モンゴル』に近い地である《西涼》の出身で、
父親[馬騰]は、『羌族』との混血であり、彼にも騎馬民族の血が流れます。
元々、彼らの勢力図は『漢王朝』の直接の支配を受けていなかったため、
異民族から信頼が厚く、また騎馬武者として強かったという事もあり、
『蜀国』の“五虎大将軍”の一人となります。
○来歴
[馬超]の父親である[馬騰]は、《西涼》出身ですが、
有力軍閥の一つである[韓遂]とは、義兄弟で友好関係にありました。
しかしながら、時に激しく両者は対立し、[曹操]の命令で、[鍾ヨウ](鍾会の父)
が和解をさせています。
●その若き日
〜211年(35歳)
202年、彼が26歳の頃、[馬騰]は、[曹操]の援軍として、[ホウ徳]らと共に、
司隷校尉の督軍従事として従軍、この時の負傷をしてもの功績のため、
“徐州刺史”となり、後に“諌議大夫”にもなります。
しかしながら、208年ごろ、[韓遂]と不仲となり、父[馬騰]も入朝したため、
[馬超]は父の軍勢を引き継ぎました。
●『潼関の戦い』
211年(35歳)
[馬超]は[曹操]の配下にあった頃、[曹操]は、《漢中》の[張魯]を討伐しようと、
[鍾ヨウ][夏侯淵]らに命じます。
しかし、[馬超]らの諸将らは、身近にいる自分達も攻められると、
疑心暗鬼になっています。
この疑心暗鬼から、[馬超]と[韓遂]は[曹操]と敵対。
戦いに臨み、10万の軍勢で、《潼水》の地に布陣し、『潼関の戦い』がおこります。
この時、強力な[馬超]らの騎馬武者によって、[曹操]も、
命を落としかけてしまうのですが、『曹操軍』[賈ク]の、
離間の計により、[馬超]と[韓遂]は不仲になり、その隙をつかれて敗北してしまいます。
そして[曹操]は、[馬超]ら《羌族》などの勢力を警戒し、
父[馬騰]らを処断されてしまいます。
このことから、[馬超]は、一族の仇と、猛烈に[曹操]に敵対するようになりました。
『三国志演義』ではこの順序が逆であり、
[曹操]に父を殺害したからこそ、[馬超]は挙兵しているという姿になります。
●敗北の後
212年〜214年(36歳〜38歳)
[馬超]は『羌族』の兵を集め、更に彼に呼応するものも多く、
《涼州》の地や城を自ら味方につけます。
[夏侯淵]らの《漢中》征伐に対抗しますが、[王異][夏侯淵][張コウ]らの援軍で、
勝利を得られる事ができず、また《漢中》の[張魯]の人望を失望し、
この軍での立場も悪化。
[馬超]は、この頃に《益州》の[劉璋]を破って《成都》を得た[劉備]に、
手紙を送って降伏を申し入れました。
この時、『三国志演義』などでは、[馬超]は『劉備軍』と激しく戦っており、
彼自身は[張飛]と、激しい一騎打ちをしているというものもあります。
●『劉備軍』への帰順後
214年〜222年(38歳〜47歳)
[劉備]陣営での評価は高く、[諸葛亮][関羽]にも一目置かれていたと言われています。
彼は更に『劉備軍』で『定軍山の戦い』などに参加。
[劉備]の漢中王になった時も、左将軍・仮節に任命され、
221年には、驃騎将軍・涼州刺史にもなるのですが、
222年に47歳で死去するのでした。
戦士ではなく、病死か寿命であるとされ、子の[馬承]が跡を継いでいます。
○人物像
[馬超]が[曹操]に反旗を翻したこと、この解釈は『三国志演義』で、
かなり変えられており、[馬超]が、悲劇のヒーローであると、
そのような印象になっていますが、
実はかなり野心家であり、[曹操]に『西涼軍』で対抗した。
(実際、彼の軍は相当に強く、[曹操]も追い詰められていた)
と取ることもできます。
また、《西涼》の軍閥時代に、『魏』の女性[王異]の一族を、
彼は殺害しており、彼女に猛烈に恨まれていたとも言われています。
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