太史慈 子義


名:太史慈(たいしじ)
字:子義(しぎ)
-Taishi Ci-

通称:美周郎

所属:劉ヨウ軍→孫策軍→孫権軍
出生:青州東莱郡黄県(山東省東部、煙台市)
生年:166年(延熹9年)
没年:206年(建安11年)
享年:41歳


-伝-
『三国志 呉書』
巻49『劉ヨウ太史慈士燮傳』[太史慈]伝


-血縁関係-

子:[太史享]

『真・三國無双』

CV:掛川祐彦
二つ名は、「不屈の闘志」
いかにもな武人といった印象で、忠義を尽くす存在。
頼りがいのある彼は歴史通り「孫策」に帰順して、
武によって義を果たしてくれます。
また、“双鞭”という、二振りの棍棒の使い手です。

『三国志大戦』

若き日の武勇ある彼の姿という印象でしょうか。
若々しい印象の「太史慈」も珍しい姿です。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』
「太史慈」は有名な武将ですが、さすがにドラマの枠では、
登場させることが難しかったのか、
正史では割と早く死去してしまうためか、
このドラマでは登場しません。
[孫権]が『合肥の戦い』で、彼を失ってしまった、
と墓前で語っているシーンがあります。



○来歴


「太史慈」は《青州》の出身であり、官吏を勤めていました。

若くして学を好んでいたと言いますが、武勇にも優れ、弓は百発百中の名手。

「孫策」に仕えたことで有名です。


「太史慈」の活躍は、『黄巾軍』残党に、彼の母親が世話になり、

恩義のある「孔融」が攻められていたときに九円に駆けつけたところから。


単騎で敵の包囲網を突破して、「劉備」に救援を求め、

援軍の知らせによって、敵陣に恐れを抱かせて配送させるのでした。

このことによって、「孔融」から「太史慈」は尊重されます。


●[劉ヨウ]配下から[孫策]配下へ

そののちに、“揚州刺史”であった「劉ヨウ」に面通しをして、

彼の配下になろうとしていました。

そこへと攻めてきたのが『孫策軍』。

この時、「劉ヨウ」によって偵察任務を与えられた「太史慈」は、

「孫策」と一騎討ちをするのですが、結局決着がつかず。

この時の戦で、「劉ヨウ」は「孫策」に敗北。

しかし一騎討ちによってその武勇を認めていた「孫策」は、

自ら「太史慈」の縄を解いて、“折衡中郎将”の座につかせるのでした。


彼はその後、『孫家』にやってくる「劉表」の甥「劉磐」の侵攻、

そして「黄祖」討伐などでも功績を上げていきます。

それは北の「曹操」の耳にも入り、彼を引き抜こうとするのですが、

「孫策」に恩がある「太史慈」は動じませんでした。


●最期

しかし「太史慈」は『孫家』が天下へと近づいていく、

『赤壁の戦い』などの前の206年に死去してしまいました。享年41歳。

せっかく武勇がある彼が、『孫呉』の重要な戦の前に死去してしまったことは、

相当に惜しまれたそうです。


○創作物での[太史慈]

創作の物語『三国志演義』『三国志』では、彼は『合肥の戦い』まで参加をしています。

しかしそこで、『曹操軍』「張遼」の奇襲に遭い、

矢に射られ、死去してしまったとのことです。


なお、子に「太史享」という人がいます。

その後の子孫達がどうなったかは不明です。

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甘寧 興覇
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