○来歴
「太史慈」は《青州》の出身であり、官吏を勤めていました。
若くして学を好んでいたと言いますが、武勇にも優れ、弓は百発百中の名手。
「孫策」に仕えたことで有名です。
「太史慈」の活躍は、『黄巾軍』残党に、彼の母親が世話になり、
恩義のある「孔融」が攻められていたときに九円に駆けつけたところから。
単騎で敵の包囲網を突破して、「劉備」に救援を求め、
援軍の知らせによって、敵陣に恐れを抱かせて配送させるのでした。
このことによって、「孔融」から「太史慈」は尊重されます。
●[劉ヨウ]配下から[孫策]配下へ
そののちに、“揚州刺史”であった「劉ヨウ」に面通しをして、
彼の配下になろうとしていました。
そこへと攻めてきたのが『孫策軍』。
この時、「劉ヨウ」によって偵察任務を与えられた「太史慈」は、
「孫策」と一騎討ちをするのですが、結局決着がつかず。
この時の戦で、「劉ヨウ」は「孫策」に敗北。
しかし一騎討ちによってその武勇を認めていた「孫策」は、
自ら「太史慈」の縄を解いて、“折衡中郎将”の座につかせるのでした。
彼はその後、『孫家』にやってくる「劉表」の甥「劉磐」の侵攻、
そして「黄祖」討伐などでも功績を上げていきます。
それは北の「曹操」の耳にも入り、彼を引き抜こうとするのですが、
「孫策」に恩がある「太史慈」は動じませんでした。
●最期
しかし「太史慈」は『孫家』が天下へと近づいていく、
『赤壁の戦い』などの前の206年に死去してしまいました。享年41歳。
せっかく武勇がある彼が、『孫呉』の重要な戦の前に死去してしまったことは、
相当に惜しまれたそうです。
○創作物での[太史慈]
創作の物語『三国志演義』『三国志』では、彼は『合肥の戦い』まで参加をしています。
しかしそこで、『曹操軍』「張遼」の奇襲に遭い、
矢に射られ、死去してしまったとのことです。
なお、子に「太史享」という人がいます。
その後の子孫達がどうなったかは不明です。
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