『劉備軍』にて活躍した武将の一人で、五虎大将の一人にされている武将。
生年が不明な人物ですが、『三国志演義』では60歳を過ぎた老将であり、
弓の名手として活躍した、勇猛盛んな武将とされています。
しかし彼の出身は《荊州》で、また主君が何度か変わっています。
『呉』と『蜀』が領土争いで決裂した地から、彼の活躍は始まります。
●[劉表][劉ソウ]配下時代
元々は[劉表]に仕えており、“中郎将”に任じられていました。
そして《長沙》の守備についていたのですが、
[劉表]が死去、そして[曹操]が《荊州》を降伏させ、
この時、一時的に[黄忠]は[曹操]から将軍に任じられて、
《長沙》太守の[韓玄]配下になります。
●[韓玄]配下時代
やがて『赤壁の戦い』で[曹操]を打ち破った[劉備]達。
その軍の[関羽]が《長沙》に攻め寄せてきます。
『三国志演義』ではこの時、[関羽]と一騎打ちをし、敗北するものの、
[関羽]に武勇を認められ、見逃しているとされています。
しかし[韓玄]に敵軍に内応しているのではないかと疑われますが、
同軍にいた[魏延]の反乱により[韓玄]が討ち取られ、
[黄忠]はここで『劉備軍』配下になりました。
●『劉備軍』の将軍として
〜220年
『劉備軍』となった[黄忠]は、
『韓玄軍』として応戦した[黄忠]は、[劉備]の入蜀などで活躍。
《益州》が平定された後は、“討虜将軍”となりました。
建安24年(219年)[劉備]の漢中攻めである、『定軍山の戦い』で、
彼の活躍が見られます。
当時のこの《漢中》の総司令官にして、勇猛盛んであった[夏侯淵]を、
率先して軍を率いて打ち取り、[曹操]の足がかりを捉えました。
この功績もあり、[劉備]は“漢中王”に、そして[黄忠]は“征西将軍”に昇進します。
[黄忠]は[劉備]から、“後将軍”という立場につかせようと考えるものの、
[関羽]は[黄忠]の彼の活躍を知らず、それに納得しないと[諸葛亮]に言われます。
しかし[劉備]は“後将軍”に指名し“関内候”の爵位も与えます。
ですがやはり[関羽]は[黄忠]を老兵と侮っていました。
そしてやはり歳だったこともあり、220年に彼は死去。
子に[黄叙]がいたのですが、早世してしまい、家系は断絶してしまいました。
○人柄や活躍について
[黄忠]は『蜀』の“五虎将軍”とされていますが、
『三国志』には、同じ巻の[関羽][張飛][馬超][趙雲]に比べても、
“黄忠伝”の記述は少なく、あまり話は伝わっていないようです。
しかしながら、義に厚い壮士と言われ、
将軍にふさわしい人物であったのは確かなようですね。
また、生年が不明なので、本当に老いてますます盛んだったのかは、
後の創作なのかもしれません。
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