黄忠 漢升


名:黄忠(こうちゅう)
字:漢升(かんしょう)
-Huang Zhong-

別名:諡 剛侯

所属:劉表軍→韓玄軍→劉備軍
出生:荊州南陽郡(河南省南陽市)
生年:不詳
没年:220年(建安25年、延康元年)
享年不明


-伝-
『三国志 蜀書』
巻36『関張馬黄趙傳』[黄忠]伝


-血縁関係-
子:[黄叙]

『真・三國無双』

CV:川津泰彦
生年不詳の人物ですが、無双ではおそらく、
一番のおじいちゃんキャラ、しかし格好いい、
といった印象で登場してくる彼。
格好いいおじいちゃんでありながら、気さくで陽気であり、
親しみやすい印象です。

『三国志大戦』

老いてますます盛んと言われる彼ですから、
三国志大戦でももちろん老人で登場。
ご老体でありながら、力強い印象というのが、
黄忠のイメージであるようです。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

最初は《荊州》の武将として登場。
[劉備]に心服し、『蜀』のために戦う、
老齢な武将となっていきます。
『定軍山の戦い』で[夏侯淵]を
討ち取るエピソードはしっかりあります。



『劉備軍』にて活躍した武将の一人で、五虎大将の一人にされている武将。

生年が不明な人物ですが、『三国志演義』では60歳を過ぎた老将であり、

弓の名手として活躍した、勇猛盛んな武将とされています。

しかし彼の出身は《荊州》で、また主君が何度か変わっています。

『呉』と『蜀』が領土争いで決裂した地から、彼の活躍は始まります。


●[劉表][劉ソウ]配下時代

元々は[劉表]に仕えており、“中郎将”に任じられていました。

そして《長沙》の守備についていたのですが、

[劉表]が死去、そして[曹操]が《荊州》を降伏させ、

この時、一時的に[黄忠]は[曹操]から将軍に任じられて、

《長沙》太守の[韓玄]配下になります。


●[韓玄]配下時代

やがて『赤壁の戦い』で[曹操]を打ち破った[劉備]達。

その軍の[関羽]が《長沙》に攻め寄せてきます。

『三国志演義』ではこの時、[関羽]と一騎打ちをし、敗北するものの、

[関羽]に武勇を認められ、見逃しているとされています。


しかし[韓玄]に敵軍に内応しているのではないかと疑われますが、

同軍にいた[魏延]の反乱により[韓玄]が討ち取られ、

[黄忠]はここで『劉備軍』配下になりました。


●『劉備軍』の将軍として
〜220年

『劉備軍』となった[黄忠]は、

『韓玄軍』として応戦した[黄忠]は、[劉備]の入蜀などで活躍。

《益州》が平定された後は、“討虜将軍”となりました。

建安24年(219年)[劉備]の漢中攻めである、『定軍山の戦い』で、

彼の活躍が見られます。


当時のこの《漢中》の総司令官にして、勇猛盛んであった[夏侯淵]を、

率先して軍を率いて打ち取り、[曹操]の足がかりを捉えました。

この功績もあり、[劉備]は“漢中王”に、そして[黄忠]は“征西将軍”に昇進します。


[黄忠]は[劉備]から、“後将軍”という立場につかせようと考えるものの、

[関羽]は[黄忠]の彼の活躍を知らず、それに納得しないと[諸葛亮]に言われます。

しかし[劉備]は“後将軍”に指名し“関内候”の爵位も与えます。

ですがやはり[関羽]は[黄忠]を老兵と侮っていました。


そしてやはり歳だったこともあり、220年に彼は死去。

子に[黄叙]がいたのですが、早世してしまい、家系は断絶してしまいました。


○人柄や活躍について

[黄忠]は『蜀』の“五虎将軍”とされていますが、

『三国志』には、同じ巻の[関羽][張飛][馬超][趙雲]に比べても、

“黄忠伝”の記述は少なく、あまり話は伝わっていないようです。

しかしながら、義に厚い壮士と言われ、

将軍にふさわしい人物であったのは確かなようですね。


また、生年が不明なので、本当に老いてますます盛んだったのかは、

後の創作なのかもしれません。


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劉禅 後嗣
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