○来歴
若い軍師や優秀な武将たちを失ってしまった「孫権」の元にやってきた、
若き軍師、それが「陸遜」になります。
その出生は、『陸氏』。呉郡の有力豪族として知られており、
彼は幼くして、本家筋の「陸康」を頼るようになります。
「陸遜」は当初は『孫権軍』と争いを繰り広げる中であったものの、
荊州で「呂蒙」が「関羽」と対峙していたとき、
「呂蒙」が病気になってしまったことから、「陸遜」の才能を「孫権」に進め、
「呂蒙」と「陸遜」は結託して、「関羽」を倒します。
この功績によって、「陸遜」は若くして、右護軍・鎮西将軍・婁侯になるのでした。
やがて『蜀』の皇帝となった「劉備」との『夷陵の戦い』が起こるのですが、
「陸遜」は『蜀軍』の挑発には乗らず、火攻めなどで攻撃、
「劉備」を追撃して、彼を病死にまで追いやることになるのですが、
「陸遜」は『三国志演義』などでも悪者とは扱われず、
美男子と描かれるようですね。
その後、『魏』と『呉』の間で抗争が始まります。
「陸遜」の活躍もあって、『呉』の領土は守り抜かれ、
「陸遜」は、244年には丞相にまでなるのですが、
「孫権」の後継者争いに加担して、彼と非常に不仲になってしまい、
失意のままに死去してしまいます。享年62歳。
と、最後まで『孫呉』のために尽くした知将で、
『三国志』の軍師としては、「諸葛亮孔明」とならんで、
「陸遜伯言」も一巻がわざわざ割かれているほど評価が高く、
知略のみならず、忠誠心も評価されているのです。
子孫は残念ながら、後の『西晋』の時代に断絶してしまいました。
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