○来歴
「呂蒙」は、もともとは、『孫策軍』の領地で若い頃から『山越』などの討伐に従事。
しかし若すぎる事もあって、馬鹿にされているようなこともあったそうですが、
「孫策」「孫権」と仕えるようになります。
特に「孫権」には取り立てられ、
『丹陽』討伐ではいたる所で功績を挙げ、“平北都尉”となり、
《広徳県》の長に就任することができました。
208年、『赤壁の戦い』では、「周瑜」「程普」と共闘して、
『曹操軍』「曹仁」を包囲するなどの活躍も見せます。
また、敗北はしたものの、217年『合肥の戦い』では、
「凌統」と共に「曹操」の先鋒部隊の進出を防ぐなど、
『孫権軍』の重鎮ともなっていくのです。
「呂蒙」の活躍と言いますと、軍神とも言われる「関羽」の対決。
『呉』が『魏』と共に、「関羽」を征伐するべく動くのです。
219年、『樊城の戦い』に集中していた「関羽」を『蜀』との同盟を裏切ってまで、
攻め立てて追い詰め、「関羽」を討ち取るのです。
しかしその直後、病気になってしまい、「孫権」は相当に心配したそうですが、
そのまま死去してしまうのです。
『三国志演義』などでは、神様のように崇められる「関羽」を、
『蜀』との同盟を放棄してまで討ち取っている事から、
悪逆な人物として描かれ、また、病死も「関羽」に呪い殺されたと、
マイナスな描かれ方をされていますが、
これは、「関羽」の討伐にしか目を向けていない浅はかな考えなので―。
最近は「呂蒙」は、知勇に優れた人物として描かれており、
十分に見直されてきています。
子には「呂j」「呂覇」「呂睦」がいますが、
直系家系は続いていません。
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