『三国志』『三国志演義』などの主人公の息子、[劉禅]。
しかしながら[劉備]が率いた『蜀』が天下を取れず、
敵である『魏』に滅ぼされた、その責任のすべてを背負わされ、
後世には、“どうしようもない愚か者”の烙印まで押される。
[曹操]などよりも遥かに悪い扱いをされてしまっている皇帝です。
確かに彼が明確に善政を敷いたという記録はないのですが、
最近ではあんまりな言い方と言われているとの事。
○出生
207年〜223年(誕生〜17歳)
『三国志』などで彼が登場する有名なシーンが、
まだ産まれたばかりの頃、父[劉備]が《荊州》に身を寄せている時に、
側室の[甘氏]との間に産まれた子として。
そこに攻めてきた[曹操]の追手から、[趙雲]に命がけで救出された。
という『長坂の戦い』には欠かせない人物です。
その後、[劉備]が“漢中王”になり、[劉禅]は太子となります。
『夷陵の戦い』の後、[劉備]が223年に死去し、彼は17歳にして皇帝になります。
●皇帝即位と[諸葛亮]の“北伐”
223年〜238年(17歳〜32歳)
すでに大国となっている『魏』と、敵対してしまった『呉』を前に、
まだ若いまま皇帝になってしまった[劉禅]は、
ほとんど[諸葛亮]に頼らないと政治を進められませんでしたが、
[諸葛亮]が“北伐”に出向き、『魏』との戦いを進めたため、
彼は何度も[諸葛亮]を呼びださなければなりませんでした。
しかしやがて[諸葛亮]も死去、以後は、[董允]ら、
優秀な政治家に支えられて国を維持していきます。
この頃の[劉禅]の記録は、いいものがほとんどなく、
[諸葛亮]を引き立てたく、そうされているようにも思えますが―。
●[黄皓]の台頭
238年〜263年(32歳〜55歳)
[諸葛亮]の死後、とにかく[劉禅]は悪評ばかりが残されています。
彼を支えた側近に[董允]がいましたが、246年に死去。
そして[董允]によって抑えられていた宦官[黄皓]の台頭は、
[劉禅]の今日の評価を決定づけているようにも思えます。
250年ごろから、[諸葛亮]の後を継いだ[姜維]が『魏』の“北伐”を再開。
しかしこれはほとんど戦果が上がらずに『蜀』の国力は疲弊していきます。
[姜維]の存在は[黄皓]にとって目障りであったらしく、
両者の対立が深まっていきました。
●『蜀』の滅亡
263年〜264年(55歳〜56歳)
部下であるはずの者達の暴走を抑えられなかった[劉禅]に、
いよいよ三国を統一しようとする、『魏』の軍勢が迫りました。
[黄皓]は敵は来ないと信じさせるものの、もはや『魏軍』は止まらず。
しかし命乞いなどをしているという記録はなく、
軍をひきいてやってきた『魏』の武将[トウ艾]に対して、
降伏を認め、自らの身を縛り上げ、棺を担いだ姿で訪れたと言います。
この時の[劉禅]の覚悟は評価されないのでしょうか?
[黄皓]は処断され、[姜維]もこともあろうか『魏』の将軍[鍾会]と組んで、
『蜀』再興をしようとするものの、
結局[鍾会]のクーデターに利用されていただけで、起こすことも出来ず失敗。
[姜維]と[鍾会]の無理な反乱により、[劉禅]の嫡男である、[劉セン]が失われています。
●“安楽公”として
264年〜271年(56歳〜65歳)
当時『魏』の実権を握っていた[司馬昭]には、“安楽公”に封じられ、
彼自身は乱を生き延びた息子や妃達と余生を過ごし、
271年に天寿を全うして死去しています。
家督争いで悶着があったものの、彼の弟の[劉永]の孫の系譜が続いており、
どうやら現在までその血筋が残るのだとか。
○後世の評価
とにかく悪評ばかり言われるのが[劉禅]。
そもそも、彼の皇帝としての任期は、『三国時代』では[孫権]に次ぐほど長く、
その間に『蜀』では反乱の一つも起きていないのに、
何故悪く言われるのか。
彼の悪評に関しても、後から付けられたような感が感じられます。
そもそも『三国時代』にはもっと悪評のつく君主は多かったのに、何故彼が、
名指しで、馬鹿の語源なのか。
それは主人公の息子としての器ではなかったから、
物語上の創作から、という見方も最近ではようやく出て来ました。
偉大なる[劉備]の息子として、『魏』を打倒せず、
逆に決定的な差をつけられて滅ぼされた、ということが、悪評の所以でしょう。
その地盤は[諸葛亮]が作ってくれたからと言う人もいますが、
[諸葛亮]の死後、30年間もその地盤を守れたのは何故でしょうか。
このところはきちんと解明してもらいたいものですね。
ちなみに、彼は子が結構おり、まだ不明な血族もあるので、
[劉備]の血筋を後世に繋げている点も、大切なところです。
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