劉禅 後嗣

名:劉禅(りゅうぜん)
字:後嗣(こうし)
-Liu Shan-

別名:幼名:阿斗

所属:蜀国(皇帝)→魏国(安楽公)
出生:タク郡タク県
生年:207年(建安12年)
没年:271年(秦始7年)
享年65歳


-伝-
『三国志 蜀書』
巻33『後主傳』[劉禅]伝


-血縁関係-
父:[劉備] 母:[甘氏]

后:[敬愛皇后][張皇后]
側室:[王貴人][李昭儀]

兄弟:[劉永][劉理][劉封]他、姉妹が二人

子:[劉セン](皇太子)[劉瑤][劉j][劉サン] 
[劉ェ][劉恂][劉?]
他、女子が数明

『真・三國無双』

CV:松野太紀
暗愚なる皇帝、という二つ名を持ちつつも、
決して否定的な描き方ではなく、守られたくなるという、
そのような感じの人物だそうです。
『蜀』の最後の描かれ方は肝心のところですが、
きちんとした形で描くのも、無双らしいところと言えましょうか。

『三国志大戦』

その技能は“魏はいいところ”。
これは[司馬昭]らの前で言ってしまったという言葉。
頼りなさそうな印象の皇帝なのは相変わらずですが―。
ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:古谷徹
物語の終盤で登場。
数々の死地を乗り越えてきた父親に、
教育されているシーンなど、
少しかわいそうになっている時もありますが、
[諸葛亮]に支えられて、『蜀』の皇帝を何とか続けていきます。


『三国志』『三国志演義』などの主人公の息子、[劉禅]。

しかしながら[劉備]が率いた『蜀』が天下を取れず、

敵である『魏』に滅ぼされた、その責任のすべてを背負わされ、

後世には、“どうしようもない愚か者”の烙印まで押される。

[曹操]などよりも遥かに悪い扱いをされてしまっている皇帝です。

確かに彼が明確に善政を敷いたという記録はないのですが、

最近ではあんまりな言い方と言われているとの事。


○出生
207年〜223年(誕生〜17歳)

『三国志』などで彼が登場する有名なシーンが、

まだ産まれたばかりの頃、父[劉備]が《荊州》に身を寄せている時に、

側室の[甘氏]との間に産まれた子として。

そこに攻めてきた[曹操]の追手から、[趙雲]に命がけで救出された。

という『長坂の戦い』には欠かせない人物です。


その後、[劉備]が“漢中王”になり、[劉禅]は太子となります。

『夷陵の戦い』の後、[劉備]が223年に死去し、彼は17歳にして皇帝になります。


●皇帝即位と[諸葛亮]の“北伐”
223年〜238年(17歳〜32歳)

すでに大国となっている『魏』と、敵対してしまった『呉』を前に、

まだ若いまま皇帝になってしまった[劉禅]は、

ほとんど[諸葛亮]に頼らないと政治を進められませんでしたが、

[諸葛亮]が“北伐”に出向き、『魏』との戦いを進めたため、

彼は何度も[諸葛亮]を呼びださなければなりませんでした。


しかしやがて[諸葛亮]も死去、以後は、[董允]ら、

優秀な政治家に支えられて国を維持していきます。

この頃の[劉禅]の記録は、いいものがほとんどなく、

[諸葛亮]を引き立てたく、そうされているようにも思えますが―。


●[黄皓]の台頭
238年〜263年(32歳〜55歳)

[諸葛亮]の死後、とにかく[劉禅]は悪評ばかりが残されています。

彼を支えた側近に[董允]がいましたが、246年に死去。

そして[董允]によって抑えられていた宦官[黄皓]の台頭は、

[劉禅]の今日の評価を決定づけているようにも思えます。


250年ごろから、[諸葛亮]の後を継いだ[姜維]が『魏』の“北伐”を再開。

しかしこれはほとんど戦果が上がらずに『蜀』の国力は疲弊していきます。

[姜維]の存在は[黄皓]にとって目障りであったらしく、

両者の対立が深まっていきました。


●『蜀』の滅亡
263年〜264年(55歳〜56歳)

部下であるはずの者達の暴走を抑えられなかった[劉禅]に、

いよいよ三国を統一しようとする、『魏』の軍勢が迫りました。

[黄皓]は敵は来ないと信じさせるものの、もはや『魏軍』は止まらず。

しかし命乞いなどをしているという記録はなく、

軍をひきいてやってきた『魏』の武将[トウ艾]に対して、

降伏を認め、自らの身を縛り上げ、棺を担いだ姿で訪れたと言います。

この時の[劉禅]の覚悟は評価されないのでしょうか?


[黄皓]は処断され、[姜維]もこともあろうか『魏』の将軍[鍾会]と組んで、

『蜀』再興をしようとするものの、

結局[鍾会]のクーデターに利用されていただけで、起こすことも出来ず失敗。

[姜維]と[鍾会]の無理な反乱により、[劉禅]の嫡男である、[劉セン]が失われています。


●“安楽公”として
264年〜271年(56歳〜65歳)

当時『魏』の実権を握っていた[司馬昭]には、“安楽公”に封じられ、

彼自身は乱を生き延びた息子や妃達と余生を過ごし、

271年に天寿を全うして死去しています。

家督争いで悶着があったものの、彼の弟の[劉永]の孫の系譜が続いており、

どうやら現在までその血筋が残るのだとか。


○後世の評価

とにかく悪評ばかり言われるのが[劉禅]。

そもそも、彼の皇帝としての任期は、『三国時代』では[孫権]に次ぐほど長く、

その間に『蜀』では反乱の一つも起きていないのに、

何故悪く言われるのか。

彼の悪評に関しても、後から付けられたような感が感じられます。

そもそも『三国時代』にはもっと悪評のつく君主は多かったのに、何故彼が、

名指しで、馬鹿の語源なのか。

それは主人公の息子としての器ではなかったから、

物語上の創作から、という見方も最近ではようやく出て来ました。


偉大なる[劉備]の息子として、『魏』を打倒せず、

逆に決定的な差をつけられて滅ぼされた、ということが、悪評の所以でしょう。


その地盤は[諸葛亮]が作ってくれたからと言う人もいますが、

[諸葛亮]の死後、30年間もその地盤を守れたのは何故でしょうか。

このところはきちんと解明してもらいたいものですね。


ちなみに、彼は子が結構おり、まだ不明な血族もあるので、

[劉備]の血筋を後世に繋げている点も、大切なところです。


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張皇后
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