西暦200年 『孫策による許昌侵攻』


『孫策による許昌侵攻』

期間:200年(建安5年)8月〜10月頃?
場所:許昌(河南省許昌市)
孫策軍(孫策) 対 許貢の勢力(許貢、厳白虎)
戦力:? 対 ?
結果:《許昌》攻略ならず、「孫策」重症を負い後に死去。


《江東》において“小覇王”とまで言われるようになった「孫策」。

しかしこの時代、もっとも有力となる勢力は、

「曹操」になろうとしていました。


そんな「曹操」は、『官渡の戦い』で有力勢力である、「袁紹」と決着をつけるため、

主力部隊を、本拠地《許昌》から動かし、手薄にしてしまっていました。

「孫策」はその隙をついて、《許昌》を乗っ取ってしまおうと計画します。


天下の一大勢力の本拠地を乗っ取ってしまおうという、

「孫策」も大胆ではありますが、

彼は、「許貢」の残党軍によって、《長江》のほとりで襲撃され、

重傷を負って、後に死去してしまうのです。

26歳という若さでした。


また、逸話ではありますが、この前後「孫策」は「于吉」という導士を招くも、

無理難題を押し付けていき、彼を殺害してしまうことがありました

そのため『三国志演義』では「于吉」に呪い殺された、

とも言われています。


それは創作ではありますが、「孫策」は若く、勇猛盛んではありましたが、

軽はずみでせっかちな性格であっため、それで身を滅ぼしてしまった。

との評価がされています。


そして彼は死去し、『孫呉』の家は、まだ若い次男「孫権」が次ぎますが、

彼はこの家を随分と立派にしたものです。

もちろんそれは、父「孫建」、兄「孫策」の築いた土地があったからですが。


201年 『倉亭の戦い』
201年 『倉亭の戦い』

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