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『官渡の戦い』
期間:200年(建安5年)8月〜10月
場所:官渡(河南省中牟)
曹操軍(曹操、曹仁、関羽など) 対 袁紹軍(袁紹、顔良、張コウなど)
戦力:10,000弱 対 100,000
結果:『曹操軍』の勝利、『袁紹軍』大幅に勢力を減らす。
『後漢王朝』が事実上名目だけの存在となり、
群雄が割拠する中、淘汰された群雄の大きな勢力が「曹操」と「袁紹」でした。
中原の二大勢力となった両者が対立し、
本格的な戦となった『官渡の戦い』は、
『三国時代』を大きく左右するものとなったのです。
まずは『白馬の戦い』において、『袁紹軍』を退けたものの、
200年8月に「袁紹」が本格的に『曹操軍』を攻め始めると、
『曹操軍』は苦戦と持久戦の様相となり、
陣営の食料は日に日に少なくなっていき、兵糧は枯渇していきました。
『袁紹軍』も『曹操軍』の輸送部隊を度々攻撃しています。
しかしながら10月になって、『袁紹軍』の「許攸」は、
膠着した戦況を打開するために、『曹操軍』の本拠地《許都》を襲撃することを提案。
しかしそれが受け入れられず、また「袁紹」が優柔不断な正確であったため、
『曹操軍』陣営に「許攸」が投降してくるのでした。
『袁紹軍』の兵糧の輸送部隊が手薄であると伝えた「許攸」の情報により、
「曹操」は迅速に行動し、5,000ほどの歩騎で、
《烏巣》を襲撃し、兵糧を大きく焼き払われてしまいます。
『袁紹軍』の「張コウ」「高覧」は《烏巣》の救援を主張するものの、
『曹操軍』の本陣急襲をせよとの、「袁紹」の無謀の決断により、
『曹操軍』本陣を襲撃しようとするものの、それは「曹洪」により防がれ、
また、「袁紹」の命令や人柄を見限った、「張コウ」と「高覧」は、
『曹操軍』に帰服してしまいます。
勇将達が寝返り、更に兵糧さえも大きく失った『袁紹軍』がこれ以上戦う事は不可能となり、
《河北》へと敗走していってしまうのでした。
両軍の兵力差は、10倍の開きがあり、それを「曹操」が覆し、
《河北》の覇者となった、伝説的戦ですが、
そこまでの兵力差があったかどうかは不明な点が多いようです。
ただ、『曹操軍』が兵力差を大きく覆したのは事実のようですが。
この戦後、『袁家』は大きくその勢力が落ちていきます。
領地では反乱が頻発し、再び《倉亭》で『曹操軍』と戦うも敗北。
「袁紹」は202年に病死し、彼の息子たちの後継者争いの混乱のうち、
結局は「曹操」に滅ぼされてしまうのでした。
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