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『「董卓」の暗殺事件』
期間:192年5月22日(初平3年4月23日)
場所:《長安》(現:陝西省 西安市)
実行者:「呂布」
暴君に成り下がった「董卓」は、『反董卓連合』が解散したことで、
何とか事なきを得たものの、
『陽人の戦い』などで、呂布に次ぐ武将であった、「華雄」が討たれるなど大敗したため、
191年の4月に、都《洛陽》を焼き払い、《長安》に遷都をするなどの、
暴挙を働き、さらに《長安》でも暴君としての姿を続けます。
彼の側近たちは略奪を繰り返し、
一方で、「董卓」が気に入らないと思った人物は処断されるという、
もはや『後漢王朝』の見る影も無い様、
「董卓」が油断をしていたのは、
「蔡邕」の他、司徒の「王允」と、養子の「呂布」。
「王允」は「呂布」に対して、「董卓」への不安感をつけこみ、
暗殺させようとします。
「呂布」はすでに最初の養父をも殺害しているような人間のため、
「董卓」のような人物の息子でいられないという意味でもつけ込んだのでしょう。
「呂布」は『後漢』の「献帝」の見舞いに来た時、
一人呼び出された時に「董卓」をついに暗殺。
更には、「董卓」一族は「呂布」や「袁家」の者たちによって、
逆賊として処断されていくのでした。
「董卓」一族の遺体は皆、集めて《長安》で数日間焼かれるという、
屈辱的な極刑をされて滅び、「呂布」はこの後、独立します。
また「王允」は暗殺に関わった「李カク」という人物に殺害されてしまいます。
この事件は様々に脚色されており、
「董卓」、「呂布」の間に、義理の娘である「貂蝉」という絶世の舞姫がおり、
彼女は「董卓」の女として、
また「呂布」とも半ば不倫という形で通じて、
「呂布」に嫉妬をさせ、「董卓」を討てば、彼が天下を取れると惑わして、
暗殺を結構させたという話があります。これは非常に有名で、
実はまんざら創作でもないそうです。
「貂蝉」という名は創作なのですが、モデルとなった「董卓」の女官がいるそうなのです。
舞姫だったかどうかは定かではありませんが、
「貂蝉」という人物が、傾国の女性であったことを後世に伝える伝説です。
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