『三国志』の物語では、主人公[劉備]の対局にいる存在として、
時に苛烈な勢いで戦乱を繰り広げ、皇帝さえも自らの元で操り、
『後漢王朝』では、“魏王”まで登り詰めた英雄として有名です。
しかしながら、そのやり方の苛烈さは、よく悪人として描かれる事があります。
●来歴
155年(誕生)〜
そんな[曹操]ですが、元は武官の一人でした。
父親は[曹嵩]と言いますが元々は『夏侯氏』。しかしながら、宦官の養子となったため、
[曹操]は宦官の孫としても憎まれていた面があります。
20歳のときに早くも[孝廉]に推挙され、洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任していき、
184年『黄巾の乱』でも活躍して、この頃、早くも隠匿生活を始めようとさえしていました。
●『反董卓連合軍』
190年(35歳)〜
やがて、『後漢王朝』では、[董卓]が圧倒的な暴虐ぶりを見せつけていき、
彼は[曹操]も仲間に引き入れようとするものの、
[曹操]は隙を見て暗殺をしようとするものの失敗。
彼は[洛陽]から、命からがら脱出していきます。
しかし[曹操]は諸侯に檄文を飛ばし、自らも私財を投じて、
[夏侯惇]、[夏侯淵]、[曹仁]という、後に活躍する猛将達と挙兵。
ですがそれは皆親戚であり、勢力は小さなものでした。
[董卓]は追い詰められ、《洛陽》を焼き払って《長安》遷都をし、
連合軍は、彼を倒すことができないまま解散します。
●『徐州の戦い』まで
191年(36歳)〜
その後、[曹操]は、同郷の出である[袁紹]に、東郡太守に任命されます。
[袁紹]と同盟を結ぶことになり、その後、《エン州》の地を攻め、
『黄巾党残党』を制圧し、“青州兵”とします。
しかし、《徐州》の地で、父[曹嵩]、弟[曹徳]を含めた一族を殺害され、
[陶謙]に対して激しい怒りとともに《徐州》に侵攻。
相当な虐殺行為を行ったとして、《徐州》を震え上がらせました。
●『官渡の戦い』まで
196年(41歳)〜
配下の[荀ケ]、[程c]の勧めによって、[董卓]は《長安》から逃れてきた、
[献帝]を迎え入れますが、自らの本拠である《許昌》に迎え入れるのです。
しかしこれは、彼がいいように皇帝を操るためだったとも言います。
197年春には《宛城》を攻めさせ、[張繍]を降伏させるものの、
[張繍]の叔父の妻を妾としようとしたため、逆襲に遭い、
長男の[曹昂]、弟の子[曹安民]、そして、忠臣であった[典韋]を失います。
しかし後198年に、[張繍]を包囲して安山に撃破させています。
さらに同年には、[董卓]を暗殺して、傍若に振舞っていた[呂布]を攻め、
《下ヒ城》の籠城を水攻めで倒し、《徐州》までを制圧します。
一方、この頃、大きな力を持っていったのが[袁紹]でした。
彼は[公孫サン]を滅ぼし、《河北》を平定。
そして、200年に『官渡の戦い』が起こり、
[曹操]は圧倒的戦力差を覆し、これを倒します。
●『赤壁の戦い』まで
202年(47歳)〜
やがて[袁紹]は病死。[曹操]は残った一族も攻め落とし、
次々と《河北の地》を攻めていき、207年に制圧。
残る、[孫権][劉備][劉表]らに目をつけた[曹操]は大軍15万をもってして南下を開始。
何かと因縁の深い[劉備]を《長阪》の地で徹底的に追い詰めるものの、
[劉備]は、[孫権]と連合軍を組み、
207年に『赤壁の戦い』が勃発。
また、慣れない風土、予想外の火攻め、慣れない水軍戦に大いに敗北。
[劉備]には《荊州》の大部分を奪われました。
敗走をした『曹操軍』でしたが、その勢いはまだ健在でした。
●後漢の魏王になる
211年(56歳)〜
[曹操]はかねてから因縁を持たれていた[馬超]を始めとする、
軍閥連合軍を『潼関の戦い』で破り、《西涼》にまで手を広げ、
216年に“魏王”になります。『後漢』[献帝]にはもはや権力はありませんでしたが、
[曹操]は最後まで皇帝にはなりませんでした。
215年には、《漢中》の[張魯]を降伏、この頃、[司馬懿]がすでに配下になっており、
そのまま南下して、[劉備]が支配をする《益州》侵攻を勧められるものの、
数年間、『劉備軍』と『曹操軍』は《漢中》で衝突。
219年に『定軍山の戦い』で[夏侯淵]が討たれ、その地も奪われてしまいます。
●その最期と後継
219年(64歳)〜220年(65歳)
『劉備軍』の武将[関羽]は、一時的に家臣としていた事があった[曹操]は、
その実力を認めつつも脅威としていました。
そんな関羽は、《樊城》《襄陽》を包囲して、圧倒的威圧感を見せるものの、
[曹操]は、[司馬懿]らと図り、『孫権軍』と同盟を組み、
『樊城の戦い』で[関羽]を破るのでした。
そして220年(建安25年)、苛烈に生きた奸雄[曹操]は病で死去。
死後、息子[曹丕]は、『後漢』[献帝]から禅譲を受け、『魏国』の建国とともに、
初代皇帝となるのでした―。
○容姿や性格
[曹操]は、小男であったとも言われていますが、宦官の孫という点が、
彼を馬鹿にした評判になっていたりします。
[曹操]は出生に問題がある自分を逆手に取って、
家柄などではなく、才能のある人材を登用する事を重視しました。
これはこの時代ではかなり異例な事です。
兵法家としても優秀で、文人、詩人でもあり、
非常に優れた戦略家、軍略家であったことから、大いにその力を持つことができたのです。
○[曹操]は悪人なのか?
『三国志演義』では、皇帝を廃して権力を握り、
《徐州》で虐殺を行い、更には、人妻を次々と妾にしたことから、
大悪党であるという描かれ方がしています。
功績面についての影が薄かったのですが、
近年の公平な評価により、彼の『三国志』の主人公としての新たな姿が注目され、
非常に注目度が上がっています。
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