曹操 孟徳

名:曹操(そうそう)
字:孟徳(もうとく)
-Cao Cao(ツァオ・ツァオ)-

別名:諡号 武皇帝/
廟号:太祖/幼名:阿瞞、吉利

所属:『後漢朝廷』→『曹操軍』(君主、魏王)

出生:沛国(現・安徽省亳州市)
生年:永寿元年(155年)
没年:建安25年1月23日(220年3月15日)
(享年65歳)


-伝-
『三国志 魏書』
巻1『武帝紀』伝


-血縁関係-

父:[曹嵩]

弟:[曹徳]

妻:[卞氏]、[劉夫人]、[環夫人]の他多数

長男:[曹昂]、嫡男:[曹丕](魏初代皇帝)、
[曹彰][曹植]
長女?:[清河長公主](夏侯楙夫人)、
次女?:[安陽公主](荀ケの長子荀ツの妻)
従兄弟:[夏侯惇]、[夏侯淵]、[曹仁]、他

『真・三國無双』

CV:岸野幸正
無双における二つ名は「蒼き覇道」。
確かに彼は苛烈な存在ではありますが、
同時に風流人であり、三国の誰よりも、
その時代というものを見つめていた、と描かれています。
初代『三國無双』から登場。


ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:樋浦 勉
悪役として描かれがちな「曹操」も、
このドラマではきちんとした主人公の一人で、
中国本国でも見直されてきている事がわかります。
苛烈さも、描かれつつも、[曹操]が、
まだ無名の時はいかに苦境を乗り越えたか、
それが描かれていました。
本国のドラマそうしたそうした[曹操]像が人気のようです。

『三国志大戦』

どことなく策士、しかし知的な印象を感じますね。
若き日の曹操の姿なのでしょうか。


こちらは、王者、覇道を行く漢の[曹操]です。

『Magic:The Gathering』における[曹操]


ドラマ『曹操』

吹替:堀内賢雄
幼年期吹替:優希
乱世の奸雄『曹操』がついに本格大河ドラマ化。
あくまでも一人の主人公としての[曹操]は、
少年時代から描かれるという全く新しい姿で、
特に若い時代から挙兵し、名を上げていく、
人間としての描かれ方がされます。

『ドラマ三国志』で、[諸葛亮]の吹き替えをした、
堀内賢雄さんが[曹操]の役を演じるという事からも、
主人公としての[曹操]像が伺えます。


『三国志』の物語では、主人公[劉備]の対局にいる存在として、

時に苛烈な勢いで戦乱を繰り広げ、皇帝さえも自らの元で操り、

『後漢王朝』では、“魏王”まで登り詰めた英雄として有名です。

しかしながら、そのやり方の苛烈さは、よく悪人として描かれる事があります。


●来歴
155年(誕生)〜

そんな[曹操]ですが、元は武官の一人でした。

父親は[曹嵩]と言いますが元々は『夏侯氏』。しかしながら、宦官の養子となったため、

[曹操]は宦官の孫としても憎まれていた面があります。


20歳のときに早くも[孝廉]に推挙され、洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任していき、

184年『黄巾の乱』でも活躍して、この頃、早くも隠匿生活を始めようとさえしていました。


●『反董卓連合軍』
190年(35歳)〜

やがて、『後漢王朝』では、[董卓]が圧倒的な暴虐ぶりを見せつけていき、

彼は[曹操]も仲間に引き入れようとするものの、

[曹操]は隙を見て暗殺をしようとするものの失敗。

彼は[洛陽]から、命からがら脱出していきます。

しかし[曹操]は諸侯に檄文を飛ばし、自らも私財を投じて、

[夏侯惇]、[夏侯淵]、[曹仁]という、後に活躍する猛将達と挙兵。

ですがそれは皆親戚であり、勢力は小さなものでした。


[董卓]は追い詰められ、《洛陽》を焼き払って《長安》遷都をし、

連合軍は、彼を倒すことができないまま解散します。


●『徐州の戦い』まで
191年(36歳)〜

その後、[曹操]は、同郷の出である[袁紹]に、東郡太守に任命されます。

[袁紹]と同盟を結ぶことになり、その後、《エン州》の地を攻め、

『黄巾党残党』を制圧し、“青州兵”とします。

しかし、《徐州》の地で、父[曹嵩]、弟[曹徳]を含めた一族を殺害され、

[陶謙]に対して激しい怒りとともに《徐州》に侵攻。

相当な虐殺行為を行ったとして、《徐州》を震え上がらせました。


●『官渡の戦い』まで
196年(41歳)〜

配下の[荀ケ]、[程c]の勧めによって、[董卓]は《長安》から逃れてきた、

[献帝]を迎え入れますが、自らの本拠である《許昌》に迎え入れるのです。

しかしこれは、彼がいいように皇帝を操るためだったとも言います。

197年春には《宛城》を攻めさせ、[張繍]を降伏させるものの、

[張繍]の叔父の妻を妾としようとしたため、逆襲に遭い、

長男の[曹昂]、弟の子[曹安民]、そして、忠臣であった[典韋]を失います。


しかし後198年に、[張繍]を包囲して安山に撃破させています。

さらに同年には、[董卓]を暗殺して、傍若に振舞っていた[呂布]を攻め、

《下ヒ城》の籠城を水攻めで倒し、《徐州》までを制圧します。


一方、この頃、大きな力を持っていったのが[袁紹]でした。

彼は[公孫サン]を滅ぼし、《河北》を平定。

そして、200年に『官渡の戦い』が起こり、

[曹操]は圧倒的戦力差を覆し、これを倒します。


●『赤壁の戦い』まで
202年(47歳)〜

やがて[袁紹]は病死。[曹操]は残った一族も攻め落とし、

次々と《河北の地》を攻めていき、207年に制圧。

残る、[孫権][劉備][劉表]らに目をつけた[曹操]は大軍15万をもってして南下を開始。


何かと因縁の深い[劉備]を《長阪》の地で徹底的に追い詰めるものの、

[劉備]は、[孫権]と連合軍を組み、

207年に『赤壁の戦い』が勃発。

また、慣れない風土、予想外の火攻め、慣れない水軍戦に大いに敗北。

[劉備]には《荊州》の大部分を奪われました。

敗走をした『曹操軍』でしたが、その勢いはまだ健在でした。


●後漢の魏王になる
211年(56歳)〜

[曹操]はかねてから因縁を持たれていた[馬超]を始めとする、

軍閥連合軍を『潼関の戦い』で破り、《西涼》にまで手を広げ、

216年に“魏王”になります。『後漢』[献帝]にはもはや権力はありませんでしたが、

[曹操]は最後まで皇帝にはなりませんでした。

215年には、《漢中》の[張魯]を降伏、この頃、[司馬懿]がすでに配下になっており、

そのまま南下して、[劉備]が支配をする《益州》侵攻を勧められるものの、


数年間、『劉備軍』と『曹操軍』は《漢中》で衝突。

219年に『定軍山の戦い』で[夏侯淵]が討たれ、その地も奪われてしまいます。


●その最期と後継
219年(64歳)〜220年(65歳)

『劉備軍』の武将[関羽]は、一時的に家臣としていた事があった[曹操]は、

その実力を認めつつも脅威としていました。


そんな関羽は、《樊城》《襄陽》を包囲して、圧倒的威圧感を見せるものの、

[曹操]は、[司馬懿]らと図り、『孫権軍』と同盟を組み、

『樊城の戦い』で[関羽]を破るのでした。


そして220年(建安25年)、苛烈に生きた奸雄[曹操]は病で死去。

死後、息子[曹丕]は、『後漢』[献帝]から禅譲を受け、『魏国』の建国とともに、

初代皇帝となるのでした―。


○容姿や性格

[曹操]は、小男であったとも言われていますが、宦官の孫という点が、

彼を馬鹿にした評判になっていたりします。

[曹操]は出生に問題がある自分を逆手に取って、

家柄などではなく、才能のある人材を登用する事を重視しました。

これはこの時代ではかなり異例な事です。


兵法家としても優秀で、文人、詩人でもあり、

非常に優れた戦略家、軍略家であったことから、大いにその力を持つことができたのです。


○[曹操]は悪人なのか?

『三国志演義』では、皇帝を廃して権力を握り、

《徐州》で虐殺を行い、更には、人妻を次々と妾にしたことから、

大悪党であるという描かれ方がしています。

功績面についての影が薄かったのですが、

近年の公平な評価により、彼の『三国志』の主人公としての新たな姿が注目され、

非常に注目度が上がっています。 


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夏侯惇 元譲
夏侯惇 元譲