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後に『魏王』となる[曹操]の従兄弟であり、彼の来歴は[曹操]と共にありました。
気性の荒いところもあったようですが、
最後の最後まで[曹操]と、そして僅かな期間ではありましたが、子の[曹丕]に仕え、
彼らの『魏』の建国に尽力しました。
ちなみに、[曹操]の父親は、元々『夏侯一族』の出身で、後に養子になり、
『曹一族』になったため、[夏侯惇]の方が、
その一族の名を受け継いでいることになります。
●出生〜[呂布]討伐
?〜198年
14歳にして、学問の師を侮辱した男を殺害するなど、荒々しい人物でしたが、
[曹操]の従兄弟でもあったため、彼の軍兵不足を補うため奔走するなど、
[曹操]に尽力しました。
[曹操]が当時《徐州》を奪い、支配をしていた[呂布]と対決した時、
[夏侯惇]は[曹操]の元で[呂布]討伐に尽力するものの、
この時に左目に流れ矢が当たり、隻眼となってしまいます。
しかしこの戦いは最終的に勝利します。
●[曹操]のための尽力
198年〜219年
この後の[曹操]の戦いに[夏侯惇]はほとんど参戦をしており、
次々とその地位を挙げて尽力しています。
[曹操]からしてみても、従兄弟であり信頼出来る存在である[夏侯惇]は、
かなり高い評価をしており、[曹操]の躍進とともに、
次々と位を上げていっています。
219年、[曹操]は、『劉備軍』の猛将で最大の強敵、[関羽]と対決するため、
[夏侯惇]を呼び寄せますが、彼は、[曹操]と同じ車に乗れ、
また寝室へ自由に出入りできるなど、相当に信頼をしていたようです。
『魏国』の前将軍に任命されており、『漢王朝』の直臣としての立場は、
[曹操]と同じくらいだったと言います。
この頃、[曹操]の圧倒的な権力から[夏侯惇]は、彼に帝になるように薦めたとも、
まずは『蜀』を攻略してから帝位につくべきと言ったとも言われています。
●[曹操]の最期と共に
220年
220年の正月ついに[曹操]が死去し、息子の[曹丕]が『魏王』を継ぐと、
3月には大将軍に任命されます。しかし4月、[曹操]の後を追うかのように、
病に倒れて死去してしまいました。
彼は[曹丕]に仕えたことにはなっていますが、『魏王朝』建国前のわずかな時期だけなので、
『魏』の王朝の武将であったことはない、ということです。
これは、まさしく[曹操]と共にあった武将といえるでしょう。
○人柄
[曹操]の従兄弟であり、彼が全幅の信頼をしていた人物だそうですが、
[呂布]との戦いで左目を失った話、以外は、
とりわけ伝説的な英雄として扱われることは少ないようです。
『三国志演義』では猛将として描かれており、
左目を失った時も、「父と母から貰ったこの目を、どうして捨てられようか」
と言って食したという凄まじい伝説があります。
『博望坡の戦い』で[諸葛亮]にしてやられるなどというエピソードもありますが、
[曹操]と共にあった、猛将というのは確かなようです。
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