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夏侯惇 元譲

名:夏侯惇(かこうとん)
字:元譲(げんじょう)
-Xiahou Dun(シャウォウ ドゥン)-

別名:諡号 忠侯
渾名:盲夏侯

所属:曹操軍→魏軍
出生:豫州沛国(現:江蘇省徐州市沛県)
生年:?
没年:延康元年4月25日(220年6月13日)
(享年不明)

《血縁関係》
親は『夏侯氏』名は不明
兄弟:[夏侯廉]
従兄弟:[曹操]、[夏侯淵]
子:[夏侯充]、[夏侯楙]、[夏侯子滅]、[夏侯子江]他

『真・三国無双』

CV:中井和哉
無双での二つ名は「隻眼の将星」。
無双シリーズではとにかく格好いい。
夏侯惇は「魏」のストーリーの主役です。


ドラマ『三国志』版

このドラマでは[曹操]の陰に隠れて、
あまり出番がない[夏侯惇]。
[曹操]の事を“殿”と言っているため、
従兄弟というよりも主従関係にあるようです。
見せ場は、『関羽千里行』で最後に[関羽]の前で一騎打ちになるところです。
(と言いますか、そこしか出番がありません)

『三国志大戦』

「夏侯惇」というと、
やはり荒々しい猛将というイメージなのでしょうか?




後に『魏王』となる[曹操]の従兄弟であり、彼の来歴は[曹操]と共にありました。

気性の荒いところもあったようですが、

最後の最後まで[曹操]と、そして僅かな期間ではありましたが、子の[曹丕]に仕え、

彼らの『魏』の建国に尽力しました。

ちなみに、[曹操]の父親は、元々『夏侯一族』の出身で、後に養子になり、

『曹一族』になったため、[夏侯惇]の方が、

その一族の名を受け継いでいることになります。


●出生~[呂布]討伐
?~198年

14歳にして、学問の師を侮辱した男を殺害するなど、荒々しい人物でしたが、

[曹操]の従兄弟でもあったため、彼の軍兵不足を補うため奔走するなど、

[曹操]に尽力しました。


[曹操]が当時《徐州》を奪い、支配をしていた[呂布]と対決した時、

[夏侯惇]は[曹操]の元で[呂布]討伐に尽力するものの、

この時に左目に流れ矢が当たり、隻眼となってしまいます。

しかしこの戦いは最終的に勝利します。


●[曹操]のための尽力
198年~219年

この後の[曹操]の戦いに[夏侯惇]はほとんど参戦をしており、

次々とその地位を挙げて尽力しています。

[曹操]からしてみても、従兄弟であり信頼出来る存在である[夏侯惇]は、

かなり高い評価をしており、[曹操]の躍進とともに、

次々と位を上げていっています。


219年、[曹操]は、『劉備軍』の猛将で最大の強敵、[関羽]と対決するため、

[夏侯惇]を呼び寄せますが、彼は、[曹操]と同じ車に乗れ、

また寝室へ自由に出入りできるなど、相当に信頼をしていたようです。

『魏国』の前将軍に任命されており、『漢王朝』の直臣としての立場は、

[曹操]と同じくらいだったと言います。


この頃、[曹操]の圧倒的な権力から[夏侯惇]は、彼に帝になるように薦めたとも、

まずは『蜀』を攻略してから帝位につくべきと言ったとも言われています。


●[曹操]の最期と共に
220年

220年の正月ついに[曹操]が死去し、息子の[曹丕]が『魏王』を継ぐと、

3月には大将軍に任命されます。しかし4月、[曹操]の後を追うかのように、

病に倒れて死去してしまいました。

彼は[曹丕]に仕えたことにはなっていますが、『魏王朝』建国前のわずかな時期だけなので、

『魏』の王朝の武将であったことはない、ということです。

これは、まさしく[曹操]と共にあった武将といえるでしょう。


○人柄

[曹操]の従兄弟であり、彼が全幅の信頼をしていた人物だそうですが、

[呂布]との戦いで左目を失った話、以外は、

とりわけ伝説的な英雄として扱われることは少ないようです。


『三国志演義』では猛将として描かれており、

左目を失った時も、「父と母から貰ったこの目を、どうして捨てられようか」

と言って食したという凄まじい伝説があります。

『博望坡の戦い』で[諸葛亮]にしてやられるなどというエピソードもありますが、

[曹操]と共にあった、猛将というのは確かなようです。


夏侯淵 妙才
夏侯淵 妙才

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