西暦184年 『黄巾の乱』



「後漢王朝の退廃へ」

2世紀末、300年以上もの歴史を持つ『後漢王朝』は、
少帝が続き、皇后が権力を振るっていたこと、
また、“宦官”の専横、内部抗争により腐敗しており、
その権威さえも失墜していました。

国土も荒廃、民は田畑も失い流浪をし、
『太平道』と呼ばれる宗教の教祖、[張角]の元に集まります。



「『黄巾党』の反乱」

“太平道”の教祖である[張角]は、
“蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉”
との標語広め、民衆の間に反『後漢朝廷』の
気運を高めていきました。



「“大賢良師”[張角]の台頭」

184年、[張角]は『後漢王朝』に対して天下取りへと乗り出しました。
自らを“大賢良師”と名乗って、
奇跡を起こして信徒を増やしていきました。
『黄巾党』の勢力は組織化され、
蜂起の準備が続きます。



「[張角]の挙兵」

密告により『黄巾党』の危険な動きが露見してしまい、
[張角]はこれに対してすぐに挙兵をしました。
自らを「天公将軍」と名乗り、
弟[張宝]は「地公将軍」、[張梁]は「人公将軍」と名乗り、
煽動された民は何十万に及びます。



「『黄巾の乱』」

[張角]従う兵達は、頭に黄色い布を巻いたことから『黄巾賊』と呼ばれ、
この乱は『黄巾の乱』と呼ばれるようになります。
『黄巾賊』は各地で朝廷の軍を破っていきます。



「『後漢朝廷』の反撃」

勢いに乗った『黄巾軍』に対して、朝廷は、
[皇甫嵩]、[盧植]、[朱儁]らを討伐に向かわせます。
しかし、『黄巾軍』は中元の各地に展開していました。



「“桃園の誓い”」

[劉備]は、『黄巾党』の行いに、世を憂い、志を立てました。
同志として意気投合した[関羽]、[張飛]と共に、
“生まれたときは違えども、死ぬときは同年同月同日に”
という義兄弟の誓いをします。



「群雄参戦」

後に乱世の奸雄と評されることになる[曹操]は、
いち早く[張宝]、[張梁]を破る活躍を見せていきました。
遅れて参戦した[劉備]も、『張角軍』の包囲を破って、
窮地の[董卓]を救うなどして、討伐軍は優勢となっていきます。



「『黄巾党』の鎮圧」

『黄巾党』の劣勢は[張角]の病死によって、
決定的なものとなりました。
弟の[張宝][張梁]らも敗れ、乱は鎮圧されました。
『黄巾党』残党も[孫堅]らの軍に鎮圧されます。



「『黄巾の乱』平定の後」

『黄巾の乱』は一応の平定をみるものの、
権力を得たものや、恩賞を受けたもの、不遇だった者など、
その結果は様々でした。
また、群雄がその力を持つようになり、
騒乱の世が明けていきます。


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西暦191年 『虎牢関の戦い』
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