濡須口の戦い

『濡須口の戦い』

期間:213年(建安17年)
場所:合肥(現:安徽省合肥市)

『曹操軍』対『孫権軍』
[曹操]他 対 [孫権][呂蒙][甘寧][董襲][徐盛]他
戦力:? 対 ?

結果:《合肥 濡須口》の防衛、膠着状態のまま


○度重なる《合肥》の戦

《合肥》は『魏』と『呉』の、言わば国境線上にある要地であり、

決定的な決着がつかない戦が何度も行われていました。

《濡須口》もそんな土地にあり、ここでも何度も戦が起きています。

ここでは、212年から始まった戦について。

●『曹操軍』の再びの来襲

212年10月、すでに前の年に[馬超]ら《西涼》の軍を破り、

その地を支配下においた[曹操]は、『赤壁の戦い』以来再びに、

[孫権]の討伐を始めました。

[馬超]の勢力を倒した[曹操]は、西に対しての兵力を減らすことができ、

さらに《関中》より西の動員力も掌握していたため、

『赤壁の戦い』を上回る勢力と大軍を率いていたとも言われています。


●《濡須口》での攻防戦

213年初頭、[曹操]は軍を《濡須口》へと進めました。

[孫権]も自ら軍を率いて防衛するも、[董襲]の船が悪天候で転覆、死亡したり、

といった出来事が起きていました。


[曹操]は、夜中に襲撃をしたものの、これは『孫権軍』によって撃退。

積極的に戦いを挑もうとする[孫権]は、

楽隊に盛大に音楽を鳴らさせるなどのことをしでかしますが、

これは、従兄弟で家臣の[孫瑜]に諌められています。


[甘寧]ら、『孫権軍』の武将も[孫権]の命令で[曹操]の陣を襲撃したり、

『曹操軍』も《長江》西岸の陣を攻撃するなど、お互いに攻防戦が続くものの、

[呂蒙]の策によって作られていた土塁を『曹操軍』は打ち破ることが出来ず、

結局は、決定打を欠く事になり、撤退せざるを得ないのでした。


○『合肥の戦い』へ

213年の《濡須口》の戦いでは決着もつかず、大規模な戦にはなりませんでしたが、

[曹操]自らの出陣により、彼は『孫権軍』の布陣に少しも乱れがない、

ということから、“息子を持つなら[孫権]のような息子がいい”と、

言わしめるほどのものでした。


そして戦いは、[劉備]と[孫権]の《荊州》の統治の騒乱が一応解決したことにより、

北方への軍の侵攻が可能になった[孫権]による、

『合肥の戦い』へと移っていきます。


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