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第六部「天下三分」第八十一集
時代背景:222年(『蜀』章武2年)(『魏』黄初3年)
『夷陵の戦い』
《夷陵》の地まで攻め入ってきた『蜀軍』。
しかしこの快進撃にも、[諸葛亮]は不安を拭い去ることが出来ず、
[馬謖]を遣わして[陸遜]を警戒するようにとの書状を送るのです。
そうであっても、[劉備]は全く動じることなく、
その攻めの手を変えることなく攻撃を続けるのでした。
この地での『呉軍』の防戦は硬いものであり、
[劉備]は、兵士を二万増やして、攻撃しようとするものの、
無理な攻撃と増援に[関興][張苞]は、数日間の休息を願い出ます。
[馬良]の提案で、『呉』を誘い出すという戦法に変える[劉備]。
『蜀軍』が撤退した、今こそ攻める時と『呉軍』の[陸遜]は言われるのですが、
[陸遜]は攻めるべくではなく、時が来たら30万の精鋭が来ると、
そう言いはります。
今度は挑発行為に移った『蜀軍』に対して、攻撃を仕掛けてしまうのは、
『呉軍』の[溥儁]
[孫権]の奥方の弟であるという彼を死罪に処した[陸遜]。
それも[孫権]がやって来ようとしている時のことでした。
その掲げられた首を見た[孫権]でしたが、
[陸遜]の事を知っている[孫権]は、訳あってのことと知り、
彼を不問にした上、老臣からの[陸遜]を大都督から下ろすとの上奏文を、
すべて焼くということをしてのけるのでした。
[陸遜]は軍を進めることをせず、
慣れない風土のために『蜀軍』は多くの兵士達が、
疫病や体調不良を起こし始めます。
さすがに[劉備]もこのまま戦っても、敗北するのは明らかであることから、
兵を一時後退させ、秋になってから攻撃をしようということになります。
そして[陸遜]は、『蜀軍』が全軍をもって、林に篭ったことを聞かされます。
[陸遜]が言っていた、酷暑と疫病と、《夷陵》の地形にあるというのです。
決定的だったものが、乾いた山林で、
それは薪に炊きあげられたも同然だったのです。
[諸葛亮]の元にも、[劉備]が林に布陣したことが伝えられますが、
兵法で最もしてはならない禁じ手、
林に布陣する事を[劉備]がしたことに、負けを確信します。
急いで脱出するように[馬良]に連絡させようとしますが、
もはや間に合わないことは明らかであり、
すでに敗走の手はずを考える[諸葛亮]。
その情報は『魏』にももたらされており、
[司馬懿]は、[劉備]の愚策を知っているのでした。
当初は、[劉備]達が勝つものと思っていた戦いでしたが、
『呉』が勝つということを知る[曹丕]と[司馬懿]。
[曹丕]は、戻ってくる『呉軍』を追撃すべく、
[曹仁][曹休][曹真]に命じ、
《濡須口》《洞口》《南郡》三方面から攻めることを決めます。
しかし自分にその命令が下されず、
どこか遠ざけられている事を感じる[司馬懿]は、
そのことを息子の[司馬昭]だけに明かすのです。
このエピソードの注目点
「《夷陵》での愚策」
。
注目の人物
『。
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