ホウ統 士元

名:ホウ統(ほうとう)
字:士元(しげん)
-Deng Ai-

渾名:鳳雛
諡号:靖侯

生年:光和元年(178年)
〜光和2年(179年)
没年:建安18年(213年)
〜建安19年(214年)
享年36歳

所属:『劉備軍』


-伝-
『三国志 蜀書』
巻『ホウ統法正傳』[ホウ統]


-血縁関係-
従父:[ホウ徳公」
弟:[ホウ林]
子:[ホウ宏]

『真・三國無双』

CV:河内考博
『真・三國無双3』から登場。
必ず顔を隠している隠者のような風貌と、
賢者のような風貌とを併せ持つ人物で、
ひょうひょうとしていて、とらえどころがない人物像です。
『三国志大戦』

隠者といったような姿もありながら、
それほど歳でもないので、美男子のように
描かれたり、
やはり隠者のような頭をかぶっていたりす
る事もあります。
ドラマ『三国志 ThreeKingdoms』

吹替:斎藤志郎
第五部で颯爽と、しかし奇妙な風貌で現れる[ホウ統]。
彼を賢者として求める者達は多く、
酒好きな姿でありながら[劉備]配下となると、
知略によって彼を支えるようになります。


“臥竜”“伏龍”とも呼ばれていた[諸葛亮]に対して、

“鳳雛”と呼ばれ、[劉備]につかえていた人物の一人。

[諸葛亮]と同じ師[司馬徽]に教えを携わったとして知られています。


若い頃は身なりが冴えず、評判が良くなかったのですが、

この[司馬徽]に才能を認められたことによって、名が高まる事になります。


○来歴

才能を認められて名が高まった[ホウ統]は、

後に郡に仕えて、[孫権]配下の[周瑜]が、《南郡》太守を領した後に病死し、

その遺骸を送り届ける役目を[ホウ統]が担います。


その後、《荊州》を領有した[劉備]の元に転じて、

《耒陽》で県令を務めるものの、仕事を滞らせたために罷免させられ、

しかしながら、[諸葛亮]や[魯粛]らのとりなしで、

“[ホウ統]は大役を与えられてこその人物”と薦めたため、

再び[劉備]に召し抱えられる事になります。


●[劉備]入蜀時の活躍
西暦213年(36歳)

[劉備]らは西の地である《益州》をとる事を考えていましたが、

そこは[劉備]の同族の[劉璋]が治める地であり、

それを攻めることをためらっていました。

しかし[ホウ統]はこれを諌め、《益州》をとることを、

[劉備]に決心させるのです。


そして入蜀に関しては、[ホウ統]が[劉備]に同行し、

[諸葛亮]は《荊州》の留守を預かる事になりました。


《益州》にはいった当初は、[劉璋]は[劉備]らの本心を知らず、

宴会の宴を開くなど無防備でした。

だったら[劉璋]を捕らえて、無用な戦無く、

《益州》を取ってしまうことを[ホウ統]は進言するものの、

これを[劉備]は断固として拒否します。


[ホウ統]は三つの《益州》を取る案を進言し、

関所を守る[劉璋]の将兵を欺いて兵を奪い、

《成都》を目指すという計を実行することにします。


[劉備]らは、[ホウ統]の策略を用いて、[劉璋]の武将である、

[楊懐]と[高沛]を呼びつけてだまし討ちにし、

《白水関》を落としました。


更に『劉備軍』は、[劉循][張任]が守る《ラク城》を包囲しますが、

この包囲戦の中、[ホウ統]は流れ矢に当たり死去してしまいます。

享年36歳。


[劉備]は[ホウ統]の死を大いに悲しんで、

“関内侯”を追封し、“靖侯”と諡号を贈りました。


●『三国志演義』での活躍

[諸葛亮]と並ぶ、と評されているだけあって、

[ホウ統]は色々な脚色がされています。

『赤壁の戦い』ではすでに[劉備]達に協力しており、

『曹操軍』の船の船酔い対策に、鎖で結んでしまう案を、

[曹操]に取り行って出し、火計を成功させるという話。

“連環の計”と呼ばれています。


また『劉備の入蜀』の際に、

[劉備]の馬に乗り換えることによって、

[劉備]の身代わりとなって、“落鳳坡”で矢に当たって最期を遂げる。

といった話があります。


[劉備]配下で活躍した期間が数年間なので、

色々と脚色されやすい人物でもあります。



トップへ
トップへ
戻る
戻る

徐庶
徐庶