“臥竜”“伏龍”とも呼ばれていた[諸葛亮]に対して、
“鳳雛”と呼ばれ、[劉備]につかえていた人物の一人。
[諸葛亮]と同じ師[司馬徽]に教えを携わったとして知られています。
若い頃は身なりが冴えず、評判が良くなかったのですが、
この[司馬徽]に才能を認められたことによって、名が高まる事になります。
○来歴
才能を認められて名が高まった[ホウ統]は、
後に郡に仕えて、[孫権]配下の[周瑜]が、《南郡》太守を領した後に病死し、
その遺骸を送り届ける役目を[ホウ統]が担います。
その後、《荊州》を領有した[劉備]の元に転じて、
《耒陽》で県令を務めるものの、仕事を滞らせたために罷免させられ、
しかしながら、[諸葛亮]や[魯粛]らのとりなしで、
“[ホウ統]は大役を与えられてこその人物”と薦めたため、
再び[劉備]に召し抱えられる事になります。
●[劉備]入蜀時の活躍
西暦213年(36歳)
[劉備]らは西の地である《益州》をとる事を考えていましたが、
そこは[劉備]の同族の[劉璋]が治める地であり、
それを攻めることをためらっていました。
しかし[ホウ統]はこれを諌め、《益州》をとることを、
[劉備]に決心させるのです。
そして入蜀に関しては、[ホウ統]が[劉備]に同行し、
[諸葛亮]は《荊州》の留守を預かる事になりました。
《益州》にはいった当初は、[劉璋]は[劉備]らの本心を知らず、
宴会の宴を開くなど無防備でした。
だったら[劉璋]を捕らえて、無用な戦無く、
《益州》を取ってしまうことを[ホウ統]は進言するものの、
これを[劉備]は断固として拒否します。
[ホウ統]は三つの《益州》を取る案を進言し、
関所を守る[劉璋]の将兵を欺いて兵を奪い、
《成都》を目指すという計を実行することにします。
[劉備]らは、[ホウ統]の策略を用いて、[劉璋]の武将である、
[楊懐]と[高沛]を呼びつけてだまし討ちにし、
《白水関》を落としました。
更に『劉備軍』は、[劉循][張任]が守る《ラク城》を包囲しますが、
この包囲戦の中、[ホウ統]は流れ矢に当たり死去してしまいます。
享年36歳。
[劉備]は[ホウ統]の死を大いに悲しんで、
“関内侯”を追封し、“靖侯”と諡号を贈りました。
●『三国志演義』での活躍
[諸葛亮]と並ぶ、と評されているだけあって、
[ホウ統]は色々な脚色がされています。
『赤壁の戦い』ではすでに[劉備]達に協力しており、
『曹操軍』の船の船酔い対策に、鎖で結んでしまう案を、
[曹操]に取り行って出し、火計を成功させるという話。
“連環の計”と呼ばれています。
また『劉備の入蜀』の際に、
[劉備]の馬に乗り換えることによって、
[劉備]の身代わりとなって、“落鳳坡”で矢に当たって最期を遂げる。
といった話があります。
[劉備]配下で活躍した期間が数年間なので、
色々と脚色されやすい人物でもあります。
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