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○来歴
若いころは評価がほとんどなかったものの、
知る人は知る、知謀の持ち主と言われていました。
病気のため、郎に就任するところを辞職し、帰路の途中、
異民族のテイ族に命を奪われかかるものの窮地を脱します。
●[董卓][李カク][段ワイ][張繍]配下時代
〜197年(建安2年)
〜50歳
後に、『漢王朝』を我が物とする[董卓]の配下となりますが、
特に目立った活躍はなく、[呂布]と[王允]の策で[董卓]が殺害されたところ、
[賈ク]は[李カク]に策を出し、[呂布]を追放、[王允]を自殺に追い込む、
という陰謀を働きます。
[賈ク]はしばらく[李カク]の参謀として活躍していましたが、
[献帝]が都から脱出したため、[李カク]に印綬を返上した彼は、
[段ワイ]という人物が駐屯している《華陰》に赴きますが、
彼自身は信用されていませんでした。
そのため、[賈ク]は、《南陽》の[張繍]の招きに応じて彼に仕えることになります。
●[張繍]の参謀から[曹操]の参謀へ
197年(建安2年)〜200年(建安5年)
50歳〜53歳
[張繍]はやがて、[曹操]の軍に攻められて降伏するものの、
[曹操]は[張繍]の義理の叔母を妾として、[張繍]を殺害しようとしたため、
[張繍]は[賈ク]の計略に従って、奇襲攻撃を仕掛け、反乱をします。
そして、この時、[曹操]は長子[曹昂]と、信頼をおいていた猛将[典韋]を失います。
西暦199年に、[曹操]は、[袁紹]と《官渡》の一大決戦を起こそうとしますが、
[袁紹]は[張繍]を味方にしようとしていました。
しかし[賈ク]は[曹操]に味方するように言い、
天下を狙う[曹操]は、息子、腹心の復讐の私念を水に流し、
[張繍]の降伏を受け入れ、[賈ク]はこうして『曹操軍』に入るのでした。
そして、執金吾、冀州牧・参司空軍事の地位につきます。
●[曹操]の参謀として
西暦200年(建安5年)〜220年(建安25年)
53歳〜73歳
『官渡の戦い』では[袁紹]配下の[許攸]の降伏により、
兵糧の守りが手薄で弱点となっていること、奇襲をかけること、
を[荀ケ]と共に[曹操]に進言し、果たして[曹操]は『官渡の戦い』に大勝します。
西暦211年には、[曹操]が[馬超][韓遂]の西涼の猛者達と戦いますが、
[賈ク]は[馬超]と[韓遂]の間を不仲にする策を成功、
彼らを撃破する事に成功します。
[曹操]の後継者を巡った争いでは、明確な名言をせず、
[袁紹]の事を言い、暗に“長子以外を後継者とすることで、内紛を起こし、
外の者に滅ぼされたこと”を暗に示します。
●『魏』の重臣として
西暦220年(建安25年)〜223年(黄初4年)
73歳〜77歳
[曹操]が薨去し、[曹丕]がその後をついで“魏王”となった後も、
[賈ク]は、三公の一人の大尉となり、
[曹丕]が皇帝に即位した後も、筆頭の家臣とされていました。
しかしながら、さすがに高齢であったため、西暦223年、77歳で病死しています。
●『三国志演義』
[賈ク]の暗躍する参謀としての姿は、脚色の多いこの作品でも変わらず。
返って脚色されていないほうが珍しいくらいですが、
史実通りの暗躍っぷりが描かれています。
●評価
主君が何度も代わり、そもそも当初は暴君[董卓]に仕え、
彼を倒したはずの[王允]を自殺に追い込む策をし、
[献帝]を拉致した[李カク]の配下になり、
また、[曹操]の配下になった後は、あらゆる策で暗躍するなど、
見事ともいえるほどの知略をしています。
[裴松之]は[賈ク]を、相当な悪党であり、入れる伝を間違えている、
との酷評をしていますが、これは[董卓]や[李カク]という、
皇帝を利用していた人物達の配下であった時代だけを見た主観です。
まあ、[荀ケ][荀攸]親子の伝に、
何故後付のように[賈ク]の伝があるのかは、分かりませんが。
全体的な姿を見ると、
主を活躍させるため、汚れ役でも引き受け暗躍する、
知謀にたけた人物であることがわかると思います。
曹操三大軍師は、[荀ケ]、[程c]、[郭嘉]ですが、
彼らと並ぶほどの活躍をしていたのが[賈ク]です。
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