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207年『新野の戦い・博望坡の戦い』


『新野の戦い・博望坡の戦い』

期間:207年(建安12年)
場所:新野(現:河南省方城県)
曹操軍(曹操、曹仁など) 対 劉備軍(劉備、徐庶など)
戦力:不明 対 不明(三国志演義によると30万)
結果:『劉備軍』の勝利


『曹操軍』と『劉備軍』もしくは『劉表軍』の間で起きた、

局地的な戦いでありながら、『三国志演義』によって、大幅に脚色され、

三国時代では有名な戦いとなっています。

『博望坡の戦い』とも呼ばれているものです。


[袁紹]やその残党一族を滅ぼした[曹操]は、

次なる支配の目標を南の《荊州》としていました。

当時、この《荊州》を治めていたのは、[劉備]の親類の[劉表]であり、

以前に[曹操]に敗れて敗走していた[劉備]を保護していましたが、

[劉備]は、《新野》の地を与えられており、

そこに[劉備]を討伐すべく、[曹操]は、[曹仁]らに大軍を与えて、

[劉備]を攻撃させました。


しかしながら、[劉備]の元にやって来ていた軍師、[徐庶]は計略を用いて、

この大軍を敗走させ、[曹操]に驚かれたといいます。


[曹操]もこれに負けじと、[程c]が策をめぐらし、

[徐庶]の母親を捕えて、偽手紙を送らせ、彼を[劉備]から引き離しています。


[徐庶]が離れていく際、彼は友人の“臥龍”とも呼ばれる、

[諸葛亮 孔明]を推挙しました。

“三顧の礼”によって、[諸葛亮]を得た[劉備]。


[徐庶]からこの[諸葛亮]の評判を聞いた[曹操]は、[夏候惇][李典]らに大軍を与え、

[劉備]の討伐へと向かいます。

しかし[諸葛亮]は、『劉備軍』の[劉備]、[趙雲]の囮を使い、

《博望坡》で火を放つ計略を立てます。

この計略にはまった[夏候惇]らは、敗走する者の、混乱の最中、

[関羽][張飛]の隊が退路を断ち、散々に蹴散らしたとされています。


そしてこの[諸葛亮]の名采配ぶりは世に知られるようになり、

[劉備]の義兄弟である[張飛]や[関羽]も、新参の彼を認めるようになるのです。



207年『夏口の戦い』
207年『夏口の戦い』

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