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『呉郡の戦い』
期間:195年(興平2年)
場所:呉郡(浙江省紹興市付近)
孫策軍(孫策、周瑜、黄蓋) 対 劉ヨウ軍(劉ヨウ、太史慈)
戦力:約5000 対 不明
195年の頃、「袁術」と“揚州刺史”である「劉ヨウ」は、
《揚州》の支配をめぐって対立をしていました。
そこに、「孫策」は「袁術」に対し、
「劉ヨウ」と対峙している叔父の《呉景(呉郡)》の援軍に赴くことを申し出ます。
しかし「袁術」は、兵を出し渋り、「孫策」にはごくわずかの兵しか与えませんでした。
その数おおよそ1000人ほどで、「孫策」の下には、
『孫家』に長く仕えていた、「黄蓋」などの将はいたものの、
やはりそれでも非常に少ない兵数。
しかしながら、「孫策」は義兄弟である「周瑜」と再開します。
「周瑜」は「孫策」に兵や情報を与え、《呉郡》の制覇に尽くしました。
『孫策軍』は人望を集め大きく規模を増やし、5000人ほどにまで上昇。
195年になり、「孫策」は「劉ヨウ」の武将、「張英」が守る、
《当利口》と「于糜」「樊能」が守る《横江津》を制圧。
さらには、《長江》を渡り、「劉ヨウ」が篭っていた要塞も陥落させ、
大量の食料や軍需物資を奪い、兵力を蓄えていきます。
「孫策」は矢傷を負ってしまい、交代をするものの、
これを「孫策」が死んだと思って出てきた、『劉ヨウ軍』の武将は追い討ちをかけますが、
「孫策」の伏兵の前に敗北。
次々と「劉ヨウ」の土地を攻略していきました。
そして出てくるのが、当時『劉ヨウ軍』の武将であった「太史慈」。
彼は『孫策軍』を偵察していたとき、わずかの部下しかいない「孫策」と対決。
一騎打ちを行うというものでした。
一騎打ちに、頭首が自ら受けて立つというのは、ごくまれな事例ですが、
結局勝負はつかないのでした。
やがて「劉ヨウ」は拠点を捨て逃亡。
「孫策」は彼のあとに、この《呉郡》に確固たる地盤を築き上げます。
一方、残された「太史慈」達残党軍は、やがて「劉ヨウ」が死去したことを知ります。
「太史慈」らは敗れますが、彼と一騎打ちをしてお互いの武勇を知っていた「孫策」は、
「太史慈」を家臣へと加えるのでした。
「太史慈」は『劉ヨウ軍』の残党を率い、「孫策」の軍に入るのです。
これにより、「孫策」は大きな功績をあげ、「袁術」に認められます。
しかしながら、逆に警戒される結果ともなったのでした。
地盤を確保した「孫策」は「袁術」から独立。
そして「孫策」の次の大きな戦となる、「袁術」との戦い、
『寿春の戦い』へとつながります。
結果としてこの戦いは、「孫策」の武勇をより高め、
「袁術」の首を縛る結果となりました。
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