西暦193年 『徐州の戦い』

『徐州の戦い(彭城の戦い)』

期間:193年(初平4年)秋
場所:徐州(山東省南東部・江蘇省長江周辺)
曹操軍(曹操、曹仁、典韋?、許チョ) 対 陶謙軍(陶謙、劉備?、呂布?)
戦力:不明 対 不明


暴君、「董卓」が暗殺され、「呂布」などの勢力が台頭。

朝廷は混乱を極め、俗な輩たちによって、『後漢王朝』は荒らし尽くされてしまうのでした。

しかしながら、そんな中、

「曹操」「袁紹」などを中心した勢力が力を持ちます。


そんな中、《徐州》の「陶謙」は、部下たちの暴走により、

「曹操」の父「曹嵩」や弟「曹徳」を含めた一族を、

一斉に暗殺されてしまい、彼の多大なる怒りを買うことになりました。


《徐州》は広い地でもあり、

「曹操」は嘆き悲しみながらも、

彼の臣下である「荀ケ」に言われ、父殺しの仇討ちの大義名分のもとに、

《徐州》の支配に乗り出します。


「曹操」にとっては弔い合戦でもあり、

苛烈な戦を行いました。

「陶謙」からは十数もの城を奪い、何万人も、兵だけでなく民をも殺害しています。

これは「曹操」の評価を落とす一員とも言われていますが、

どれだけ彼が、父など、肉親を暗殺されたことに激昂したか、

それが分かる姿でもあります。


私も「曹操」を悪人とは思っていませんが、

流石にこれは凄まじい行為と言えるでしょう。

歴史にはもっと酷い事をしている人は幾らでもいますが。


また翌年194年にも「曹操」は再び《徐州》に侵攻し、虐殺行為を行い、

この地方の人々には非常に恐れられていました。


しかしながら『劉備軍』『呂布軍』までも参戦し、

《徐州》の支配は楽なものではありませんでした。

『曹操軍』と『呂布軍』の戦いは一進一退で、

これは『下ヒの戦い』まで続きます。


西暦195年 『濮陽の戦い』
西暦195年 『濮陽の戦い』

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