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○来歴
後に『三国時代』を統一することになる、『晋王朝』の礎を築いた[司馬懿]の長男。
そして彼自身もその『晋王朝』統一のため、
様々な活躍と『魏』国内の統制を行います。
若い時から評判がよく、“[司馬子元]のみが、天下を掌握できる”
と言われていたりもしました。
『魏』の散騎常侍を拝命し、皇帝の近衛兵を指揮する立場にもついています。
●『正始の変』と実権の継承
西暦249年〜252年(42歳〜44歳)
[司馬懿]が専横をする[曹爽]に対してのクーデターの計画をねった時、
それに[司馬師]も参加していました。
[司馬師]は叔父の[司馬孚]と共に《洛陽》を、
どこからやってきたかも分からないと言われる三千人の兵で囲み、
結果、クーデターは成功。
“子元もやるようになった”と父に言われた[司馬師]は、
この功績で“衛将軍”になります。
そして251年8月に父[司馬懿]が死去。
その跡をついで、“撫軍大将軍”になった[司馬師]は『魏』の全権を掌握し、
252年には“大将軍”になりました。
●『呉』との戦い『東興の戦い』『合肥新城の戦い』
252年〜253年(44歳〜46歳)
西暦252年、『呉』の皇帝[孫権]が死去。
[司馬師]は、これに[胡遵][諸葛誕]らに《東興》を攻めさせますが、
これは『呉』の大都督である[諸葛恪]の前に大敗。
[司馬師]は自分の責任と過失であるといい、
その度量に周りは驚かされ、むしろ恥じたと言われていますが、
これは逆に自分の権力を固めようとした、国を盗むための、
一手であったという辛辣な評価もされています。
勢いづいた[諸葛恪]は、253年4月に《合肥新城》にまで攻めてきますが、
[カン丘倹]と[文欽]に防衛と20万の大軍を[司馬師]は与え、
数ヶ月の包囲網の後、守りに硬い《合肥新城》もあり、
撤退させる事に成功しました。
●[曹芳]廃位
西暦254年(47歳)
この頃、皇帝よりも、実権を確実に握っていた[司馬師]に対して、
皇帝[曹芳]とその一派は対抗心を抱き、
『司馬一族』を排除しようとする動きが強まっていました。
[曹芳]と通じていた[李豊][張緝][夏侯玄]らを、
自分が排除する前に[司馬師]は一斉に粛清し、
さすがに皇帝にまでは手を出さなかった[司馬師]ですが、
[曹芳]の粗暴が悪い事を理由に彼を廃位させてしまいます。
そして、[明帝(曹叡)]の後継者が帝位にふさわしいとして、
[曹髦]も新たな皇帝とします。
●『カン丘倹・文欽の乱』
西暦255年(48歳)
[司馬師]が実権を握った『魏』では、
[カン丘倹][文欽]らが6万の兵を率いて挙兵し、
これを鎮圧するように軍を派遣する事が望まれます。
[鍾会][王粛]らは[司馬師]が出陣することを望み、
彼自らが出兵する事になりました。
結果、投降兵が相次いだ反乱は鎮圧されることになり、
[カン丘倹]は捕らえられて斬られ、[文欽]と武勇ある息子の[文鴦]は逃走。
また『呉』が攻めてきたものの、《寿春》にて[諸葛誕]がこれを制圧し、
[孫峻]らの軍を打ち破っています。
●持病の悪化とその最期、後継者
これらの活躍と、冷酷なまでの粛清行為をも行った[司馬師]ですが、
持病として目に悪性の瘤を持っていました。
[文欽]らの反乱鎮圧には、この手術後間もなく出兵し、
更に[文鴦]の奇襲を受けて無理をしてしまったため、病状が悪化してしまいます。
[司馬師]は軍の士気を下げまいと傷を隠していましたが、
やがて激痛に襲われるようになり病状が悪化してしまいます。
彼は弟の[司馬昭]を呼び、軍を委ね、自身は《許昌》で死去しました。
享年48歳。死後は、弟の[司馬昭]が跡を継ぎます。
[司馬師]には男子がおらず、[司馬昭]の次男[司馬攸]を養子としていましたが、
[司馬昭]の長男[司馬炎]がその兄であったため、
[司馬昭]を後継としました。
司馬一族の力は[司馬昭]へと受け継がれていくことになります。
○人物
冷静沈着で、品性良好。父にも周りにも期待されていた[司馬師]は、
確かに堕落すること無く父の後継を務め上げます。
しかし[司馬懿]が結構用心深く、長年をかけて『魏』の実権を握ったものの、
[司馬師]の時代には、『司馬一族』の力は隠し切れないものだったはずです。
反発や対抗勢力は確かにおり、[司馬師]の敵は多かった事でしょう。
それに対し、確実な引き締めを行った[司馬師]は、
後世にも悪評もありますが、『魏』の国で内乱を起こさないため、
反乱鎮圧などでも活躍しました。
[司馬師]の暗殺計画などもあったようですが、
国を実質取りまとめていた彼を暗殺してしまっては、
三国のバランスが保たれている中では『魏』の国を危うくした事でしょう。
そして彼の後継となった[司馬昭]は、
三国の拮抗に決定的な一打を与える事になっていきます。
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