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『魏国』成立以後に活躍を広げていった歴戦の武将。
特に『蜀』の“北伐”から国を守ったという功績が大きく、
最終的には[鍾会]と共に『蜀』に攻め入り、
[劉禅]を降伏、『蜀』を平定しました。
こういった功績を出すだけあり、[司馬懿][司馬師][司馬昭]に渡り、
深い信頼と高い評価を得ていた人物です。
○来歴
吃音(口がどもる)であったものの、知略と意志のある人物であったと言います。
元は《荊州》出身で、[曹操]が《荊州》を征服した時、
故郷から連れられ、《汝南》で屯田民になっていました。
[石苞]と共に御者をしていたところ、有能である事が見出され、
都で[司馬懿]に抜擢され、尚書郎となりました。
●『魏国』内での活躍
~西暦255年
当時は、『呉』や『蜀』に対抗するため、
田畑の拡大と、穀物の備蓄を強化する計画が有りましたが、
[鄧艾]は、建築のための『済河論』を書き、
[司馬懿]もこの通りに建築し、
備蓄や水害の被害もなくなりました。
しかし、こういった建設や、地理といったものは、当時の武将から、
馬鹿にされてしまうことであったらしいのです。
ですが[鄧艾]は嘲笑を気にせず、将来必ず役立ててみせると、
任地で詳細な地図を作成したと言われています。
また西暦255年『カン丘倹・文欽』が『魏』に反乱を起こしますが、
この鎮圧に武将として赴き、鎮圧に貢献しています。
●対『蜀』前線にて
西暦256年~263年
西暦256年『段谷の戦い』で、侵攻してきた『蜀』の[姜維]を倒した[鄧艾]は、
“鎮西将軍・都督隴右諸軍事”となりました。
西暦263年には、[司馬昭]の命令を受け、“征西将軍”として、
[鍾会]と共に『蜀』に侵攻。
要衝であった《剣閣》を迂回して、《陰平》の間道を突破する、
奇襲作戦を提案し、息子の[鄧忠]らとこれを突破し、
『蜀』の[諸葛亮]の息子[諸葛瞻]らを討ち取り、
《成都》に迫りました。
そして[劉禅]は《成都》を攻められる前に[鄧艾]に降伏しました。
[鄧艾]は略奪行為をせず、幸福者を元の仕事に復帰させたため、
『蜀』の民に讃えられました。
しかしこの功績の大きさに慢心してしまったのか、
『魏』の朝廷の許可を受けずに[劉禅]や、『魏』の武将に官職を与え、
また自分の手柄を自慢するような態度を取るようになりました。
功績によって、[鄧艾]は大尉に任命されますが、
だんだんと、独断専行の態度が増えたため、
内外から不審な目で見られるようになります。
●『[鍾会]の乱』
西暦264年
[鄧艾]は[司馬昭]に早急に『呉』も討伐すべきと進言。
[劉禅]を《益州》にとどめておこうとします。
しかしこれにかねてからの[鄧艾]の行動を見ていた、
[鍾会][胡烈]らが、彼が反逆行為をしていると言上し、
勅命がくだり[鄧艾]は反逆者として送還することになってしまいます。
[鄧艾]の護送車が《成都》を発つと、
これを機と見ていた[鍾会][姜維]はクーデターを起こしますが失敗して討たれ、
[鄧艾]は一度助けだされますが、
[衛?]は復讐を恐れ、[田続]を使って、[鄧艾]と息子の[鄧忠]を殺害してしまいます。
●名誉の回復へ
こうして[鄧艾]は反逆者として殺害され、
一族も、処断・流刑にされてしまうなど、不名誉となってしまいました。
しかし『魏』が『晋王朝』となり、
[司馬炎]の時代になると、情状酌量はあると言い、
[鄧艾]の妻と孫の帰還を許しています。
また、[段灼]は[鄧艾]を弁護し、
諡を与え、孫に領地を継がせるという進言をしました。
過去の皇帝の誤りを申し立てる事、過去刑に処された人物を、
弁護し名誉回復を嘆願する事は非常に勇気のある事でしたが、
西暦273年、[司馬炎]は[鄧艾]の功績を評価し、
孫[鄧朗]は郎中となり、『羌族』の反乱が遭った時も、
[鄧艾]の築いた砦で国は守られたのです。
○後世の評価
『三国志』の著者[陳寿]によれば、
[鄧艾]は確かに強い意志で功績を立てていき、『蜀』平定に、
貢献したものの、災いを防ぐ配慮に欠けていた、
敵を作ってしまったと言われています。
農民から身を上げたという人物は、『蜀』贔屓な『三国志演義』でも、
実質その『蜀』を滅ぼした『魏』の武将であるにも関わらず、
好意的な印象を持っています。
また吃音であったことから、現在でも吃音の人を励ますため、
[鄧艾]の立志伝は引き合いに出されるのだそうです。
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