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鄧艾 士載

名:鄧艾(とうがい)
字:士載(しさい)
-Deng Ai-

所属:魏国
主君:[曹叡]→[曹芳]→[曹髦]→[曹奐]

出生:《荊州》義陽郡棘陽県
生年:不明
没年:西暦268年(泰始4年)
(享年不明)


-伝-
『三国志 魏書』
巻28『王カン丘諸葛鄧鍾傳』[鄧艾]


-血縁関係-
子:[鄧忠]他2名

『真・三國無双』

CV:小原雅人
『真・三國無双6』から『晋』勢力で登場。
元文官とは思えぬほどの体躯と武勇の持ち主。
しかしそれでいて紳士的な態度で、
周りには接しているので、とても頼りになる人物、
といった印象になっていますね。
『三国志大戦』

元文官とはいえ、対『蜀』前線で活躍したため、
歴戦の猛将としての姿が描かれています。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

[諸葛亮]対[司馬懿]の図式が現れる“北伐”で、
[郭淮]の方がよく登場するため、
[鄧艾]はキャスト表にはなく、
目立った登場はしていません。


『魏国』成立以後に活躍を広げていった歴戦の武将。

特に『蜀』の“北伐”から国を守ったという功績が大きく、

最終的には[鍾会]と共に『蜀』に攻め入り、

[劉禅]を降伏、『蜀』を平定しました。

こういった功績を出すだけあり、[司馬懿][司馬師][司馬昭]に渡り、

深い信頼と高い評価を得ていた人物です。


○来歴

吃音(口がどもる)であったものの、知略と意志のある人物であったと言います。

元は《荊州》出身で、[曹操]が《荊州》を征服した時、

故郷から連れられ、《汝南》で屯田民になっていました。

[石苞]と共に御者をしていたところ、有能である事が見出され、

都で[司馬懿]に抜擢され、尚書郎となりました。


●『魏国』内での活躍
~西暦255年

当時は、『呉』や『蜀』に対抗するため、

田畑の拡大と、穀物の備蓄を強化する計画が有りましたが、

[鄧艾]は、建築のための『済河論』を書き、

[司馬懿]もこの通りに建築し、

備蓄や水害の被害もなくなりました。


しかし、こういった建設や、地理といったものは、当時の武将から、

馬鹿にされてしまうことであったらしいのです。

ですが[鄧艾]は嘲笑を気にせず、将来必ず役立ててみせると、

任地で詳細な地図を作成したと言われています。


また西暦255年『カン丘倹・文欽』が『魏』に反乱を起こしますが、

この鎮圧に武将として赴き、鎮圧に貢献しています。


●対『蜀』前線にて
西暦256年~263年

西暦256年『段谷の戦い』で、侵攻してきた『蜀』の[姜維]を倒した[鄧艾]は、

“鎮西将軍・都督隴右諸軍事”となりました。

西暦263年には、[司馬昭]の命令を受け、“征西将軍”として、

[鍾会]と共に『蜀』に侵攻。


要衝であった《剣閣》を迂回して、《陰平》の間道を突破する、

奇襲作戦を提案し、息子の[鄧忠]らとこれを突破し、

『蜀』の[諸葛亮]の息子[諸葛瞻]らを討ち取り、

《成都》に迫りました。


そして[劉禅]は《成都》を攻められる前に[鄧艾]に降伏しました。

[鄧艾]は略奪行為をせず、幸福者を元の仕事に復帰させたため、

『蜀』の民に讃えられました。


しかしこの功績の大きさに慢心してしまったのか、

『魏』の朝廷の許可を受けずに[劉禅]や、『魏』の武将に官職を与え、

また自分の手柄を自慢するような態度を取るようになりました。

功績によって、[鄧艾]は大尉に任命されますが、

だんだんと、独断専行の態度が増えたため、

内外から不審な目で見られるようになります。


●『[鍾会]の乱』
西暦264年

[鄧艾]は[司馬昭]に早急に『呉』も討伐すべきと進言。

[劉禅]を《益州》にとどめておこうとします。


しかしこれにかねてからの[鄧艾]の行動を見ていた、

[鍾会][胡烈]らが、彼が反逆行為をしていると言上し、

勅命がくだり[鄧艾]は反逆者として送還することになってしまいます。


[鄧艾]の護送車が《成都》を発つと、

これを機と見ていた[鍾会][姜維]はクーデターを起こしますが失敗して討たれ、

[鄧艾]は一度助けだされますが、

[衛?]は復讐を恐れ、[田続]を使って、[鄧艾]と息子の[鄧忠]を殺害してしまいます。


●名誉の回復へ

こうして[鄧艾]は反逆者として殺害され、

一族も、処断・流刑にされてしまうなど、不名誉となってしまいました。

しかし『魏』が『晋王朝』となり、

[司馬炎]の時代になると、情状酌量はあると言い、

[鄧艾]の妻と孫の帰還を許しています。


また、[段灼]は[鄧艾]を弁護し、

諡を与え、孫に領地を継がせるという進言をしました。

過去の皇帝の誤りを申し立てる事、過去刑に処された人物を、

弁護し名誉回復を嘆願する事は非常に勇気のある事でしたが、

西暦273年、[司馬炎]は[鄧艾]の功績を評価し、

孫[鄧朗]は郎中となり、『羌族』の反乱が遭った時も、

[鄧艾]の築いた砦で国は守られたのです。


○後世の評価

『三国志』の著者[陳寿]によれば、

[鄧艾]は確かに強い意志で功績を立てていき、『蜀』平定に、

貢献したものの、災いを防ぐ配慮に欠けていた、

敵を作ってしまったと言われています。


農民から身を上げたという人物は、『蜀』贔屓な『三国志演義』でも、

実質その『蜀』を滅ぼした『魏』の武将であるにも関わらず、

好意的な印象を持っています。

また吃音であったことから、現在でも吃音の人を励ますため、

[鄧艾]の立志伝は引き合いに出されるのだそうです。


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鍾会 士季
鍾会 士季