魏国の歴史


西暦 元号(中国暦) 出来事
○「魏王朝」成立以前
141年 永和6年 [程c]誕生
147年
建和元年
[賈ク]誕生
155年
永寿元年
[曹操]誕生
163年 延憙6年 [荀ケ]誕生
168年 建寧元年 [曹仁]誕生
169年 建寧2年 [張遼]誕生
170年 建寧3年
[徐晃]誕生?
[郭嘉]誕生
182年 光和5年
[甄氏(甄姫)](後の文昭皇后)誕生?
187年 中平4年 [曹操]の次男、[曹丕](後の「魏国」初代皇帝)誕生
189年 中平6年  『[曹操]、[董卓]の暗殺に失敗し、洛陽から脱出をする』
[曹操]、「陳留」にて挙兵。各地諸侯へと、
[董卓]を打倒する檄文を送る。
190年 初平元年
『反董卓連合軍』結成。
[袁紹]が盟主になる。
191年 初平2年
『反董卓連合軍による『陽人の戦い』』
連合軍は敗北。
 『反董卓連合軍』は解体。
192年 初平3年 『エン州の戦い』
『黄巾党残党』対『曹操軍』
[曹操]は、エン州に黄巾党残党を下し、『青州兵』を編成。
 同時期、[許チョ]を配下へと加える。 
193年 初平4年 [袁術]、[曹操]に破れ、寿春に撤退。
[曹操]の父親[曹嵩]、徐州刺史[陶謙]の部下により殺害。
『徐州の戦い(193年)』
『陶謙軍』『劉備軍』対『曹操軍』

[曹操]、父親の復讐のため[陶謙]を攻める。
194年 興平元年
『濮陽の戦い』
『呂布軍』対『曹操軍』
[呂布]、[曹操]の留守に《エン州》に侵攻
195年 興平2年
『定陶の戦い』
『呂布軍』対『曹操軍』
[呂布]、[曹操]に破れ、《徐州》の[劉備]の元へ。
196年 建安元年 [曹操]、《洛陽》へ入り、[献帝]を《許都》に迎える。
[呂布]、《徐州》を乗っ取る。
[劉備]、[曹操]を頼る。 
197年 建安2年
『宛城の戦い』
『張魯軍』対『曹操軍』
[曹操]、《宛》にて[張繍]に大敗し、
 長男[曹昂]、武将[典韋]を失う。 
[袁術]、皇帝を名乗り、国号を『仲』とする。
『寿春の戦い』
『袁術軍』対『曹操軍』
[曹操]、[袁術]を討伐。 
198年 建安3年
『下ヒの戦い』
『呂布軍』対『曹操軍』『劉備軍』
[曹操]、《下ヒ》で呂布を破り処断。
[張遼]を配下に。 
199年 建安4年
[劉備]、《下ヒ》を攻略し、[曹操]より独立。
[袁紹]と同盟。 
[袁紹]、[曹操]討伐の兵を挙げ南進。 
200年 建安5年
『徐州の戦い(200年)』
『劉備軍』対『曹操軍』
[劉備]、[曹操]に破れ、[袁紹]を頼る。
[関羽]、[曹操]に降り客将に。 
『白馬の戦い』
 『曹操軍』対『袁紹軍』
客将[関羽]、白馬に『袁紹軍』[顔良]、延津に[文醜]を討つ。 
[関羽]、千里を行き、『曹操軍』より離反。
[劉備]と再会。
『官渡の戦い』
『曹操軍』対『袁紹軍』
[曹操]、《官渡》で[袁紹]を下す。
201年 建安6年
『倉亭の戦い』
『曹操軍』対『袁紹軍』
[劉備]、[曹操]から逃れ
 《荊州》の[劉表]を頼り、《新野》に。 
203年 建安8年
『白狼山の戦い』
『曹操軍』対『袁尚、袁譚軍』
[曹操]は、[袁尚]、[袁譚]を破り、『袁家』を滅ぼす。 
204年 建安9年
[曹操]、[袁煕]に攻め入る。
[曹操]の次男、[曹丕]、[袁煕]の妻、[甄姫]を娶る。 
205年 建安10年 [曹操]、[袁譚]を滅ぼし、《青洲》を平定。 
206年 建安11年 [曹操]、[高幹]を滅ぼし、《井州》を平定。 
207年 建安12年
[曹操]、[烏丸]を討伐し、《河北》平定を完了。 
[郭嘉]死去。享年37歳。 
『新野の戦い』
『曹操軍』対『劉備軍』

[曹仁]、《新野》に侵攻するも、
[劉備]の軍師、[徐庶]に敗れる。
208年 建安13年
[曹操]、丞相となり、南征の軍を起こす。 
[劉表]、病没。
[劉ソウ]、[曹操]に降伏。
『赤壁の戦い』
『曹操軍』対『孫権軍』『劉備軍』

『曹操軍』連合軍に大敗。
209年 建安14年
『南郡の戦い』
『曹操(曹仁)軍』対『孫権(周瑜)軍』
[周瑜]、《江陵》を攻め、[曹仁]は敗退。
211年 建安16年
[曹操]、[馬騰]を誅殺。 
『潼関の戦い』
『曹操軍』対『馬超軍』

[馬超]、父の復讐をしようとするも、
 《潼関》で[曹操]に敗北。
212年 建安17年 [曹操]、“魏公”となる。
215年 建安20年
『陽平関の戦い』
『曹操軍』対『張魯軍』

[曹操]、[張魯]を降して《漢中》平定。
『合肥の戦い』
『曹操軍』対『孫権軍』

[張遼]、《合肥》を攻めてきた『孫権軍』を破る。
216年 建安21年 [曹操]、“魏王”となる。
217年〜219年 建安22年
〜建安24年
『定軍山の戦い』
『曹操軍』対『劉備軍』

[夏侯淵]、《定軍山》にて[黄忠]に討たれる。
享年不明。
219年 建安24年
『樊城の戦い』
『曹操軍』対『劉備軍』

[曹仁]、[関羽]の軍に囲まれるも、
『呉』と連携して[関羽]を倒す。
220年3月15日 建安25年
1月23日
[曹操]《洛陽》にて死去。享年66歳。
220年 延康元年 [夏侯惇]死去。享年不明。

●「魏」初代皇帝[曹丕 文皇帝]の時代(220年〜226年)
220年10月29日 黄初元年
 [曹丕]、「後漢」皇帝から禅譲を受けて帝位に就き、
国号を『魏』と定め、『魏国』を開く。
『後漢王朝』滅亡。
 『後漢王朝』の元号“延康”から改められ、“黄初”とされる。 
221年 黄初2年 [甄姫]死去。享年39歳。 
[劉備]、『呉』の討伐軍を起こし、
[孫権]、『魏』に臣従し、“呉王”に。 
222年 黄初2年
『濡須口の戦い』
『呉軍』対『魏軍』

[曹丕]、《濡須》を攻め、[孫権]、『魏』より独立し、皇帝に。
三国鼎立成る。 
223年 黄初3年
『洞口の戦い』
『呉軍』対『魏軍』
[曹丕]、《洞口》、《濡須》、《江陵》を攻めるも『呉』に敗北。
兵を引く。 
『西平関の戦い』
『蜀軍』対『魏軍』
[司馬懿]、五路侵攻をするも、[諸葛亮]に退けられる。 
[曹仁]死去。享年55歳。
[賈ク]死去。享年76歳。
224年 黄初4年
『広陵の戦い』
『呉軍』対『魏軍』
[曹丕]、『呉』を攻めるも敗北。 
[張遼]、矢傷がもとで死去。享年54歳。
227年6月29日 黄初7年
5月17日
[曹丕]、肺炎が元で死去。享年39歳。在位6年。 

●「魏」二代皇帝[曹叡 明皇帝]の時代(226年〜239年)
227年 黄初7年
[曹丕]の長男[曹叡]、『魏国』皇帝[明皇帝]即位。
“太和”と改元される。
227年 太和元年
『天水の戦い』
『蜀軍』対『魏軍』
[諸葛亮]、《安定》《南安》《天水》を攻略。
[姜維]、『蜀』に降る。 
228年 太和2年 [司馬懿]、『蜀』に内通した[孟達]を討つ。
[徐晃]戦死。享年58歳。 
『街亭の戦い』
『蜀軍』対『魏軍』
 《街亭》にて、『魏軍』は『蜀軍』を大敗させる。 
『石亭の戦い』
『呉軍』対『魏軍』
 《石亭》にて、[曹休]は『呉軍』の[陸遜]に敗北。 
231年 太和5年 『キ山の戦い』
『蜀軍』対『魏軍』
[司馬懿]は、キ山を[諸葛亮]に攻められるものの、
撤退させる。 

[張コウ]、撤退する『蜀軍』を追うも、
[諸葛亮]の伏兵に遭い、木門道で戦死。(享年不明) 
233年 青龍元年 “青龍”と改元される。 
234年 青龍2年
『五丈原の戦い』(諸葛亮の最後の北伐)
『蜀軍』対『魏軍』
[司馬懿]、持久戦に持ち込む。

[諸葛亮]病により陣中で死去。
『蜀軍』を撤退させる。 
『合肥新城の戦い(234年)』
『呉軍』対『魏軍』

[孫権]、自ら《合肥新城》を攻囲するも、
[諸葛亮]の死去を知り撤退。 
237年
青龍5年、
 景初元年
[公孫淵]、“燕王”を自称、『魏』に造反。
238年 景初2年
『襄平の戦い』
『公孫淵軍』対『魏軍』

[司馬懿]『魏軍』を率い、[公孫淵]を破り、
 《遼東》を平定 
239年 景初3年 [曹叡]死去。享年33歳?(35歳?)。在位13年。 

●「魏」三代皇帝[曹芳 少帝]の時代(239年〜254年)
239年 景初3年 [曹芳]が即位、幼いため、[曹爽]、[司馬懿]が補佐をする。
244年 正始5年
『興勢山の戦い』
『蜀軍』対『魏軍』
[曹爽]率いる軍、《漢中》に侵攻するものの、
《興勢山》で[王平]に阻まれて撤退。
249年 正始10年
『正始の変』
『曹爽軍』対『司馬懿軍』
[司馬懿]、長男[司馬師]と共に、
[曹爽]一党に対し、クーデターを起こし、
『魏国』の全権を握る。
『牛頭山の戦い』
『蜀軍』対『魏軍』

『蜀軍』[姜維]、《牛頭山》に出陣するも勝てず、
軍を撤退。
251年 嘉平3年
『王凌の乱』
『魏(司馬懿)軍』対『王凌軍』

[王凌]、[曹芳]廃位を企てるも露見。
[司馬懿]に降伏。
[司馬懿]死去。享年72歳。
『司馬氏』の後継を[司馬師]が継ぐ。
252年 嘉平4年
『東興の戦い』
『魏(司馬昭)軍』対『呉軍』

[司馬昭]、『呉』の[孫権]の死去に乗じ、
《東興》に攻め入るも敗北。
253年 嘉平5年
『合肥新城の戦い(253年)』
『魏(司馬師)軍』対『呉軍』

『呉』の[諸葛恪]、《合肥新城》を囲むも、
疫病に遭い、兵を退く。
『鉄籠山の戦い』
『魏(司馬師)軍』対『蜀軍』

[郭淮]、[司馬昭]を救うものの、
[姜維]に射られ戦死?
(正史では病死)享年不明。
254年 嘉平6年
『司馬師の暗殺未遂事件』
[曹芳]、[司馬師]を暗殺しようとするものの露見。 
[曹芳]、[司馬師]により廃位。在位15年。 

●「魏」四代皇帝[曹髦 高貴郷公]の時代(254年〜260年)
254年 正元元年 [司馬師]によって、皇帝[曹髦]がたてられる。
255年 正元2年
『カン丘倹・文欽の乱』
『カン丘倹・文欽軍』対『魏軍』

[カン丘倹][文欽]、《寿春》にて反乱を起こすが、
[司馬師]の軍勢によって乱は鎮圧される。
[司馬師]病没、享年47歳、
跡を次弟[司馬昭]が継ぐ。 
『桃水の戦い』
『蜀軍』対『魏(司馬昭)軍』

『蜀』の[姜維]、《桃水》に背水の陣をひくも、
[ケ艾]の偽の伏兵の前に撤退。
256年 正元3年、甘露元年
『段谷の戦い』
『魏(司馬昭)軍』対『蜀軍』

『蜀』の[姜維]、[ケ艾]と、《段谷》で戦うも、
大敗をする。
257年 甘露2年
『諸葛誕の乱』
『魏(司馬昭)軍』対『諸葛誕・呉軍』
[諸葛誕]、《寿春》にて、反[司馬昭]の兵を挙げ、
『呉国』と結ぶ。

[司馬昭]、《寿春》を厚く包囲し、
[孫チン]ら『呉国』の救援軍を退かせる。
258年 甘露3年
[司馬昭]、[諸葛誕]を倒し《寿春》を陥とす。
 《准南》平定。

[諸葛誕]死去。享年不明。
『関中の戦い』
『蜀軍』対『魏軍』
[姜維]、[ケ艾]と対峙するも、[諸葛誕]敗北の報に撤退。
260年 甘露5年
『魏帝[曹髦]、[司馬昭]に対し兵を挙げる』
『魏(司馬昭)軍』対『魏(曹髦)軍』

[曹髦]戦死。
享年20歳。在位6年

●「魏」五代皇帝[曹奐 元帝]の時代(西暦260年〜265年)
260年 景元元年 [曹奐](元帝)、[司馬昭]によりたてられる。

 262年 景元3年 『桃陽の戦い』
 『蜀軍』対『魏軍』

[夏侯覇]、[姜維]に従い、《桃陽》を攻めるも、
 『魏軍』の伏兵に逢い、戦死?
正史では不明。
[夏侯覇]死去?享年不明。
 
263年 景元4年 [司馬昭]、“晋公”となる。
 
『剣閣の戦い・成都の戦い』
 『蜀軍』対『魏軍』
[司馬昭]、『蜀』討伐を命じ、
[鍾会]、[ケ艾]ら、《成都》を包囲。
 『蜀』皇帝[劉禅]、降伏する。

『蜀国』滅亡。 
264年 景元5年、
 咸熙元年 『鍾会の乱』
 『鍾会軍』対『魏軍』
[鍾会」、[姜維]と共に《成都》で政変を起こすも失敗。
[鍾会]、[ケ艾]を暗殺?

 [鍾会]死去。享年39歳。
[ケ艾]死去。享年67歳。
[姜維]死去。享年58歳。 
[司馬昭]、“晋王”となる。 
265年 咸熙2年 [司馬昭]死去、享年54歳。
 後を長男[司馬炎]が継ぐ。 
[曹奐]、[司馬炎]に禅譲を譲る。在位6年。
『魏国』滅亡。 






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