西暦208年 『長坂の戦い』


期間:208年(建安13年)8月〜9月
場所:長坂(荊州南郡当陽県長坂坡)(現:湖北省当陽県)
曹操軍(曹操など) 対 劉備軍(劉備、関羽、張飛、趙雲など)
戦力:10万〜15万 対 2,000〜5,000
結果:『劉備軍』の逃走


《華北》を平定した[曹操]は、『漢』王朝の丞相となり、

天下を統一すべく、南下を開始しました。

《荊州》へとその目を向けた[曹操]は、

当時《荊州》を支配していた[劉表]に対して攻勢に出ました。


15万という大軍を南下させられた状況でありながら、

[劉表]は病に倒れ、更に家中分裂を招いてしまいます。

[劉表]側室の[蔡夫人]と謀り、子の[劉表]次男の[劉j]を擁立。

そして家督を継承させたものの、


この頃、《樊城》に駐屯していた[劉備]は、

[諸葛亮]に、[劉j]を攻撃すれば《荊州》を支配できると言われるものの、

同族を攻めることはできず、また、[劉j]の方も[劉備]を恐れ、

彼の城に入れてもらうことはできないのでした。


しかし、[劉j]の側近や《荊州》の多くの民が[劉備]に帰順したものの、

その人数が十数万人にも及んだため、

『劉備軍』は一日十里程度しか進むことができず。


南下をしてくる一大勢力の『曹操軍』は、『劉備軍』が、

軍事物資が豊富にある《江陵》を得ることを危惧し、

騎兵によって[劉備]を追撃、そして《長坂》で[劉備]に追いつくのですが、

[劉備]は数十騎あまりで逃走。


この時、[劉備]は、[甘夫人][糜夫人]とはぐれてしまいますが、

一説には見捨てざるを得なかったとも言われています。

また、跡継ぎである、まだ赤子の[阿斗(劉禅)]ともはぐれてしまいますが、

この命がけの逃避行の中、

[劉備]に身を寄せていた[趙雲]は、一人単騎で駆け、

[阿斗]を救ったのは有名な伝説となっています。


この後、[劉備]とは別行動をしていた[張飛]は殿を務めて、

川を隔てて『曹操軍』と対峙、その橋を切り落とすことによって、

『劉備軍』を逃がすことに成功しました。


また[劉備]は[関羽]が率いる船団に出会って、《夏口》まで逃れ、

やがて[諸葛亮]を《江南》の大勢力となっていた[孫権]の元へと派遣。

[孫権]を動かすことができた[劉備]らは、

三国志前半の一大決戦『赤壁の戦い』へと臨むのです。


こちら、『赤壁の戦い』へと至る出来事の一つとして有名で、

『曹操軍』の苛烈さ、『劉備軍』の逃避行、

そして、[趙雲]の活躍が伝説的に描かれているのが印象的です。


映画『レッドクリフ』などでもこの戦から物語は始まり、

ドラマ『三国志』では前半後半を分かつほどのものなど、

物語では“赤壁大戦”に至る重要な歴史なのです。



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