呂蒙 子明

名:呂蒙(りょもう)
字:子明(しめい)
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別名:阿蒙

所属:孫策軍→孫権軍
出生:汝南郡富陂(安徽省阜南県)
生年:178年(熹平7年、光和元年)
没年:220年(建安25年、延康元年)
享年:42歳

『真・三國無双』

二つ名は、「知勇の士」
武勇がありそうな印象ではありますが、
智勇を持った智将とされており、
「凌統」「甘寧」のあいだに入って諌めたり、
「陸遜」の軍師としての師匠という姿です。
最近、一段と格好良くなりました。

ドラマ『三国志版』

『呉』のメインキャストの一人。
悪役のような姿はなく、若くして「孫策」から仕え、
後に「関羽」と激突します。
故にどことなく若い印象で登場しますね。
吹替は、成田剣さん。

『三国志大戦』

「関羽」を倒すほどの武勇がある。
という意味があるのでしょうか、
猛将のような印象で登場しています。
別のカードには若い頃の彼の姿もありますね。



「呂蒙」は、もともとは、『孫策軍』の領地で若い頃から『山越』などの討伐に従事。

しかし若すぎる事もあって、馬鹿にされているようなこともあったそうですが、

「孫策」「孫権」と仕えるようになります。

特に「孫権」には取り立てられ、

『丹陽』討伐ではいたる所で功績を挙げ、“平北都尉”となり、

《広徳県》の長に就任することができました。


208年、『赤壁の戦い』では、「周瑜」「程普」と共闘して、

『曹操軍』「曹仁」を包囲するなどの活躍も見せます。

また、敗北はしたものの、217年『合肥の戦い』では、

「凌統」と共に「曹操」の先鋒部隊の進出を防ぐなど、

『孫権軍』の重鎮ともなっていくのです。


「呂蒙」の活躍と言いますと、軍神とも言われる「関羽」の対決。

『呉』が『魏』と共に、「関羽」を征伐するべく動くのです。

219年、『樊城の戦い』に集中していた「関羽」を『蜀』との同盟を裏切ってまで、

攻め立てて追い詰め、「関羽」を討ち取るのです。


しかしその直後、病気になってしまい、「孫権」は相当に心配したそうですが、

そのまま死去してしまうのです。


『三国志演義』などでは、神様のように崇められる「関羽」を、

『蜀』との同盟を放棄してまで討ち取っている事から、

悪逆な人物として描かれ、また、病死も「関羽」に呪い殺されたと、

マイナスな描かれ方をされていますが、

これは、「関羽」の討伐にしか目を向けていない浅はかな考えなので―。


最近は「呂蒙」は、知勇に優れた人物として描かれており、

十分に見直されてきています。


子には「呂j」「呂覇」「呂睦」がいますが、

直系家系は続いていません。




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丁奉 承淵
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